ハビエル・オチョア
ハビエル・オチョア・パラシオス(バスク語: Javier Otxoa Palacios、スペイン語: Javier Ochoa、1974年8月30日 - 2018年8月24日)は、スペイン・バスク地方のビスカヤ県バラカルド出身の自転車競技選手。
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基本情報 | ||||
本名 |
Javier Otxoa Palacios ハビエル・オチョア・パラシオス | |||
生年月日 |
1974年8月30日 ビスカヤ県バラカルド | |||
没年月日 |
2018年8月24日(43歳没) アンダルシア州マラガ県アルアウリン・デ・ラ・トーレ | |||
国籍 | スペイン | |||
選手情報 | ||||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 選手 | |||
特徴 | クライマー | |||
プロ経歴 | ||||
1997-2001 | ケルメ | |||
主要レース勝利 | ||||
ツール・ド・フランス2000 - 区間優勝1回 |
一般競技選手時代はケルメ・コスタ・ブランカに所属していた。2001年の交通事故で障害を持ったが、2004年のアテネパラリンピック自転車競技では金メダル1個と銀メダル1個、2008年の北京パラリンピックでも金メダル1個と銀メダル1個を獲得した。双子の弟のリカルド・オチョアも自転車競技選手だった。
経歴
編集ケルメ時代
編集1997年から2001年までの間、ケルメ・コスタ・ブランカに所属していた。2000年にはツール・ド・フランス2000に出場。第10ステージのオカタムの山岳ステージで区間優勝を果たし、総合成績では13位、山岳賞ではコロンビアのサンティアゴ・ボテーロに次ぐ2位となった[1]。
交通事故
編集2001年2月、双子の弟のリカルド・オチョアとともにマラガでブエルタ・ア・アンダルシアに向けて練習していたところ、後ろから来た車に二人ともはねられ、弟のリカルドは即死した。ハビエル自身も脳に強くダメージを負ったほか、全身を複雑骨折し、手術を行ったものの、昏睡状態へと陥った[2]。一時は医師より生命維持装置を外すことも提案されたが家族は回復を信じて治療を続け、60日以上の昏睡状態を経てついには意識が戻った。
パラリンピック出場
編集脳への障害からツール・ド・フランスでの区間優勝や事故の記憶などは失っており、片側の肺の損傷などもあったが懸命なリハビリを続け、2004年にはアテネパラリンピックへと出場することになる。そのアテネではロードレース / タイムトライアルlCP3では金メダルを獲得、追い抜きにおいても予選で世界記録を樹立したものの、決勝でイギリスのダレン・ケニーがその記録を塗り替え、銀メダルに終わった。
2008年の北京パラリンピックではタイムトライアルCP3で金メダル、ロードレースLCでは再びダレン・ケニーに次ぐ銀メダルを獲得した。個人の追い抜きでは彼を追い越したダレン・ケニーのすぐ後ろに近付き過ぎたとして失格扱いになった[3]。これに対してダレン・ケニーは決勝でオチョアと競い合いたかったのに残念だと述べている[4] 。
2018年8月24日に死去した。43歳。
成績
編集パラリンピック
編集年 | 大会 | 競技 | 種目 | 順位 |
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2004年 | アテネパラリンピック | 自転車競技 | ロード・タイムトライアル CP3 | 1位 |
トラック・個人追抜 CP3 | 2位 | |||
2008年 | 北京パラリンピック | 自転車競技 | ロード・タイムトライアル CP3 | 1位 |
ロード・マスドレース LC 3–4/CP 3 | 2位 |
脚注
編集- ^ Official results for Javier Otxoa Tour de France
- ^ Cycling Memorials – Ricardo and Javier Otxoa| Daily Peloton, 2003年9月25日
- ^ “Three Paralympics Golds for GB”. Velodrome.org.uk (2008年9月8日). 2009年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月8日閲覧。
- ^ “Paralympics 2008 - Track Day 1”. British Cycling (2008年9月7日). 2008年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月8日閲覧。
外部リンク
編集- 公式ウェブサイト
- ハビエル・オチョア特集 - ウェイバックマシン(2005年3月8日アーカイブ分) Mas Ciclismo
- ハビエル・オチョア - サイクリングアーカイヴス