ハリー・ジョージ・ガーランド(Harry George Garland、1899年11月28日 - 1972年6月18日)は、アメリカ合衆国実業家である。

ハリー・G・ガーランド
Harry G. Garland
ハリー・G・ガーランド(1945年)
生誕 Harry George Garland
(1899-11-28) 1899年11月28日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州ジョリエット
死没 (1972-06-18) 1972年6月18日(72歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシガン州デトロイト
墓地 ウッドローン墓地
職業 実業家
著名な実績 ガーランド・マニュファクチャリング
配偶者 ローズ・ガーランド
子供 ハリー
ジュディ
キャロル
George Moses Garland
Annie Amilia Elliott
コールサイン WA8GFP
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1935年ミシガン州デトロイトにガーランド・マニュファクチャリング社を設立し、第二次世界大戦中に軍用機器の生産に貢献した結果、戦時中のミシガン州のリーダーの一人として認められた[1]1947年にガーランド・マニュファクチャリング社を売却した後は、財政難に陥った企業を救済する破産管財人をたびたび務めた。彼が破産管財人となった会社には、Anker-Holth Manufacturing Co.、Richmond & Backus Co.、D. J. Healy Shops、Rocky River Paper Mill、F.L. Jacobs Companyがある[2][3]。また、ミシガン州マコーム郡の監理委員を約20年間務めた[4]

ミシガン州ルイストン英語版のガーランド・ロッジ・アンド・リゾートは、彼の名前にちなんで名付けられた[5]

初期の経歴 編集

 
デトロイト・グラショット通りのガーランド・マニュファクチャリング社(1945年頃)

ガーランドは、シカゴとデトロイトの工場で工具と金型製作の技術を学んだ。1917年にシカゴのアメリカン・キャン・カンパニー英語版で見習いを始め、4年間働いた。自動車産業が盛んだったミシガン州に機会を見出した彼は、1921年にデトロイトに移り、スチュードベーカー社に職工として入社した。1923年クライスラー社に移り、旧マクスウェル自動車英語版工場で熟練工となった[2]1935年にクライスラー社を退職し、ガーランド・マニュファクチャリング社を設立した[1]

ガーランド・マニュファクチャリング社 編集

 
デトロイト川でガーランド・マニュファクチャリングのロゴが入った水上飛行機を操縦するガーランド(1946年)

ガーランド・マニュファクチャリング・カンパニー(Garland Manufacturing Company)は、1935年にハリー・G・ガーランドが自動車産業向けの部品メーカーとして設立した。工場はデトロイトのグラショット通り10533番地にあった。第二次世界大戦が勃発すると、ガーランド・マニュファクチャリング社は海軍や陸軍向けのトラック、戦車、飛行機の部品生産に転向した。"Leaders of Wartime Michigan"(戦時中のミシガン州のリーダーたち)という本の中で、ガーランドの戦争への貢献が評価されている[1]

ガーランドはデトロイト川のクレアポイント・マリーナ(Clairpointe Marina)のオーナーでもあった[6]。このマリーナは、ディープキールのボートを水上から保管場所までレールに乗せて輸送する、ガーランドが設計・建設したシステムが特徴的であった[1]。また、ガーランドは水上飛行機基地も運営しており、1940年代にはガーランド・マニュファクチャリング社のロゴが入った水上飛行機がデトロイト川に離着水するのを見ることができた[7]

1947年、ガーランドはガーランド・マニュファクチャリング社をハーマン・オットーに売却した。オットーは、ミシガン州ルイストンにあるガーランド・マニュファクチャリング社が所有していた土地で大規模なリゾートを開発し、1951年にオープンした。このリゾートは、ガーランドから名前を取ってガーランド・ロッジ・アンド・リゾート(Garland Lodge and Resort)と名付けられた[5]

F・L・ジェイコブス社 編集

 
F・L・ジェイコブス社管財人のアーサー・B・ファイデラーとハリー・G・ガーランド(1964年)

1959年3月18日、米国連邦地方判事トーマス・パトリック・ソーントン英語版は、F・L・ジェイコブス社(F.L. Jacobs Company)の管財人にハリー・G・ガーランドとアーサー・B・ファイデラー(Arthur B. Pfleiderer)を任命し、連邦倒産法の下での会社更生を命じた[3][8]。F・L・ジェイコブス社の破産は、「近年の全米第4位の企業金融スキャンダル」と評された[2]。ソーントン判事の判決が下った当時、F・L・ジェイコブス社は1959年初頭にアレクサンダー・グテルマ英語版から会長職を引き継いだハル・ローチ・ジュニア英語版が率いていた[3]。1960年にグテルマは不適切な会計処理などの罪で実刑判決を受けた[9]。F・L・ジェイコブス社は、ミシガン州に製造工場を持ち、ニューヨークには豪華なオフィスがあった。ソーントン判事は同社を「違反の掃き溜め」(a cesspool of violations)と評した[10]

ガーランドとファイデラーがF・L・ジェイコブス社の複雑な財務問題を解決する仕事に就き、ガーランドは同社の2つの事業子会社の社長に就任した。グランドラピッズ・メタルクラフト社(Grand Rapids Metalcraft Corp.、F・L・ジェイコブス社が1936年に買収)とコンチネンタル・ダイキャスティング社(Continental Die Casting Corp.)である[11][12]。1959年末、『デトロイトニュース』紙でこれら2つの会社の損失が大幅に削減されたことが報じられ、1960年初頭には、ガーランドは会社が黒字で運営されていると報告した[13][14]

2つの事業子会社を順調に経営する一方で、ガーランドとファイデラーはF・L・ジェイコブス社の過去の債務を清算し、会社更生を完了させることができた[15][16]。7年後、ガーランドとファイデラーは、1510万ドルの負債を抱えていたF・L・ジェイコブス社を、存続可能な状態に戻した[17]。裁判所は最終的な会社更生完了の判決において、ガーランドとファイデラーを称賛し、グランドラピッズ・メタルクラフト社とコンチネンタル・ダイキャスティング社が「それぞれの分野におけるリーダー」に復帰したと評した[18]

F・L・ジェイコブス社が倒産状態から脱却すると、ガーランドは同社の会長に任命された[19]。ガーランドは1971年まで会長職に就いていたが、『ウォールストリートジャーナル』紙の報道によれば、「手綱を若い者に譲る」と言って会長職を辞した[20]

その他の企業 編集

 
1965年、アンカー・スティール・アンド・コンベア社の経営陣とハリー・G・ガーランド。Ade Czarnecki(チーフエンジニア)、ハリー・G・ガーランド(社長)、Marshall Brenner(副社長兼ゼネラルマネージャー)、Ted Hegelman(セールスマネージャー)。

1960年代には、ハリー・ガーランドはミシガン州ディアボーンのアンカー・スティール・アンド・コンベア(Anchor Steel and Conveyor Company)の社長も務めた[21]。この会社でガーランドは、1964年のニューヨーク万国博覧会ゼネラルモーターズのアトラクション「フューチュラマ」において、来場者を運ぶコンベアシステムの設計、建設、設置を行った[22]。ガーランドのコンベアシステムは、南極、月、海底、ジャングル、山、砂漠、未来の都市社会などのジオラマの中を、一度に1400人の着席した来場者を15分かけて運んだ[23][24]。移動する座席の速度に合わせて動く歩道から乗り降りするため、乗客の乗降のためにコンベアを一時停止させる必要はなかった[25]。万国博覧会の期間中、約2,600万人の来場者がこのシステムを利用した。これは万国博覧会で最も人気のあるアトラクションだった[26]

1950年代から1960年代にかけて、ガーランドは他の会社の責任を超えてミシガン州アッパー半島の製造会社・レイク・ショア社(Lake Shore, Inc.)のデトロイト地域の代表を務めた。彼は、自動車産業の主要な下請け会社としてレイク・ショア社を設立したことで知られている[27]

私生活 編集

 
ハリー・G・ガーランド、妻のローズと子供たち(1957年)

ハリー・G・ガーランドは1899年11月28日イリノイ州ジョリエットで生まれた[1]。1921年にデトロイトに移り住み、以降、デトロイト地域で過ごした。彼は熟練した飛行機パイロットであり、ヨットマンでもあった。民間航空パトロール英語版で活躍し、『アビエーション・アンド・ヨッティング』誌の諮問委員を務めた[28]。1945年、デトロイト川沿いのリバーサイドアベニュー14480番地に自宅を建てた。彼は自宅で水上飛行機基地と飛行学校を運営していた。ガーランドの水上飛行機基地には木製の傾斜路があり、そこからフロート水上機英語版を操縦し、コンクリートの傾斜路からは飛行艇グラマン G-44を水中に誘導することができた[28]

1952年、デトロイト市は公園にするためにガーランドの土地を収用し、ガーランドはレイク・タウンシップのグロース・ポワント・ショアーズに移り住んだ。彼はセントクレア湖畔のゴークラー・ポイントに別荘を建て、水上飛行機発着場を建設し、そこからパイパー PA-18を操縦した[29]

エドセル・フォードの夫人の後任としてタウンシップの理事会に参加し、1953年11月6日にレイク・タウンシップの執行官に就任した。その当時、タウンシップの有権者は13人しかいなかった[30][31]。タウンシップの執行官として、彼は20年近くの間マコーム郡の監理委員を務め、他に空港委員長も務めた[4][29]

ハリー・G・ガーランドと妻のローズスペイン語版との間にはハリー(1947年生まれ)、ジュディ(1949年生まれ)、キャロル(1951年生まれ)の3人の子供がいた[29]。息子のハリー・T・ガーランドは、マイクロコンピュータメーカー・クロメンコの共同設立者となった。

ハリー・G・ガーランドは1972年6月18日に死去した[4]。妻のローズは、1980年にハリーの長年の友人だったトーマス・パトリック・ソーントンと結婚したが、トーマスは1985年に亡くなった。彼女は2014年4月26日に亡くなるまでグロース・ポワント・ショアーズに住み続けた[32]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e Moranz, John (1945). Leaders of Wartime Michigan. Milwaukee, Wisconsin: John Moranz. p. 86 
  2. ^ a b c Thompson, Kenneth (1964年6月14日). “Trustees Team To 'Cure' Firms”. The Detroit Free Press: pp. 12–13B 
  3. ^ a b c “Trustees Named to Reorganize F.L. Jacobs; Court Move May Supersede Other Rulings”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 28. (1959年3月19日) 
  4. ^ a b c Resolution of the Council of the Village of Grosse Pointe Shores”. archive.org. Internet Archive (1972年7月18日). 2013年12月11日閲覧。
  5. ^ a b Schult-Mazzenga, Jil (2009年11月27日). “Otto remembered for style, charm and grace”. Gaylord Herald Times. オリジナルの2016年3月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160315145641/http://articles.petoskeynews.com/2009-11-27/love-affair_24047292 2013年12月3日閲覧. "The resort was named after Harry Garland, the man from whom Herman Otto bought his prototype shop." 
  6. ^ Thompson, Michael A.. “A Brief Non-Yachting History of the Bayview Yacht Club”. p. 34. 2014年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月28日閲覧。
  7. ^ Michigan Airport Directory: 1946-1947”. archive.org. Internet Archive (1947年8月1日). 2013年12月11日閲覧。
  8. ^ “Court Picks Trustees for Jacobs Co.”. Detroit News. (1959年3月18日). "Thornton appointed Harry Garland, former owner of Garland Manufacturing Co. and Arthur B. Pfleiderer, vice president of the Detroit Bank & Trust Co., as trustees" 
  9. ^ “Guterma Sentenced to 4 Years, 11 months, Fined $160,000; Appeal Set, Bail Denied”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 4. (1960年2月18日) 
  10. ^ “Court Holds Jacobs Co. in Detroit”. Detroit Free Press: p. 5. (1959年3月28日). "Shortly before his ruling he described the manufacturing company's New York office as “a cesspool of violations.”" 
  11. ^ “Grand Rapids Metalcraft Merger”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 2. (1936年8月17日) 
  12. ^ “Metalcraft Continues”. Grand Rapids Press. (1959年3月30日) 
  13. ^ “Trustees Cut Jacobs Loss in Fiscal '59”. Detroit News. (1959年12月14日) 
  14. ^ Thompson, Kenneth (1960年2月21日). “F.L. Jacobs Tangle Easing”. Detroit Free Press: p. 10-C 
  15. ^ “Jacobs Co. Trustees Offer Settlements, Plan Reorganization”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 9. (1963年2月26日) 
  16. ^ “F.L. Jacobs Trustees Propose Reorganization of Bankrupt Concern”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 26. (1965年6月18日) 
  17. ^ McCann, Hugh (1971年12月5日). “Jacobs Holders Recall the Chill Of Siberian Era”. Detroit Free Press: p. 12-B. "It took F.L. Jacobs Co. seven years to make a comeback from a negative net worth of $15.1 million....The comeback was primarily the result of the labors of the trustees, Harry Garland and Arthur B. Pfleiderer." 
  18. ^ Thompson, Ken (1967年3月1日). “F.L. Jacobs Co. Recovery Official”. Detroit Free Press. p. 4-B. "The court in its final ruling appeared unable to resist heaping praise on Harry Garland and Arthur B. Pfleiderer" 
  19. ^ “F.L. Jacobs Officer Slate Approved by Federal Court”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 14. (1966年8月29日) 
  20. ^ “F.L. Jacobs Names Erskine Chairman, Olsen President”. Wall Street Journal (New York, New York: Dow Jones & Company): p. 14. (1971年9月17日). "Mr. Garland, 72 years old, resigned in order to turn the reins over to a younger man." 
  21. ^ 1965 Annual Report of Anchor Steel and Conveyor Company”. archive.org. Internet Archive (1966年2月28日). 2013年12月11日閲覧。
  22. ^ Smith, Robert F. (1964). “Futurama II: Drive designed for better-than-standard quiet synchronization”. Power Transmission Design (Penton/IPC): 17. "Anchor Steel & Conveyor's engineers tackled a tough one: a people conveyor – the drive system for the moving observation seats in the General Motors exhibit at the New York World's Fair." 
  23. ^ Smith, Robert F.; Czarnecki, Ade (October 1964). “Futurama II Ride at World's Fair has Unique Drive Assembly”. Detroit Engineer (The Engineering Society of Detroit): 16–18. "Built and installed by Anchor Steel & Conveyor Co. of Dearborn, it is a continuous closed loop operation requiring approximately 15 minutes for each complete circuit at 123.5 fpm track speed." 
  24. ^ Pope, Leroy (1968年2月29日). “Financial Gossip”. Tyrone Daily Herald: p. 9. https://www.newspapers.com/newspage/17961730/. "The Futurama ride carried 1,400 seated spectators simultaneously on a 15 minute tour of the huge GM exhibit." 
  25. ^ 1964 Annual Report of Anchor Steel and Conveyor Company”. archive.org. Internet Archive (1965年3月15日). 2014年4月11日閲覧。
  26. ^ Carlson, Jen (2013年3月11日). “Experience The Futurama Ride At The 1964 World's Fair”. gothamist.com. 2013年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月11日閲覧。 “The GM Futurama Ride...was the fair's most popular attraction, and nearly 26 million people took a ride into the future.”
  27. ^ “In Memoriam”. Lake Shore News (Kingsford, Michigan: Lake Shore, Inc.) 19 (2). (1972年). "For nearly a quarter century, Mr. Garland represented Lake Shore, Inc. in the Detroit area, and was instrumental in establishing Lake Shore as a major sub-contractor to the automotive industry." 
  28. ^ a b “Harry Garland's Attractive Home and Seaplane Base”. Aviation and Yachting 15 (1): 12. (June 1947). 
  29. ^ a b c “Garland Speaks For Unique Lake Township On Macomb County Board”. South Macomb News. (1957年8月22日) 
  30. ^ Courage, Raymond (1955年3月7日). “Lake Township Needs More Voters---13 Aren't Enough to Go Around”. Detroit Free Press: p. 16. "The township supervisor is Harry Garland" 
  31. ^ “Mrs. Edsel Ford Drops Out of Lake Township Board Race”. The Detroit News. (1953年4月3日). p. 4. "Mrs. Ford's place on the board of review will be filled by Harry Garland" 
  32. ^ Rose Garland Thornton”. Grosse Pointe News. 2015年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月12日閲覧。