ハーマン・ラム(Herman Karl Lamm,1890年 - 1930年)はドイツ系アメリカ人のギャング。軍隊で習得した戦術を銀行強盗に応用し、1920年代に数十件の銀行強盗を成功したことで知られる。

ハーマン・ラム
Herman Karl Lamm
生誕 1890年4月19日
ドイツの旗 ドイツ・カッセル
現況 死没(40歳)
死没 1930年12月16日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・イリノイ州スコットランド
死因 拳銃自殺
墓地 イリノイ州ダンヴィル
別名 バロン(男爵)
ハリー
職業 ギャング
罪名 銀行強盗
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略歴 編集

犯罪歴 編集

1890年、ドイツのカッセルで生まれた。プロイセン陸軍に従軍していたが、カード詐欺で捕まり軍を追放された[1]第一次世界大戦が始まる直前の1914年にアメリカ合衆国に渡った[2]

アメリカに着いたラムは逮捕と釈放を繰り返し、そのたびに異なる偽名を使った。1914年12月にサンフランシスコで銀行強盗で逮捕され、1917年にユタ州の刑務所に短期間入れられた。1918年6月にウィスコンシン州スペリオルで”ホールドアップ強盗”で逮捕されるが、証拠が乏しいため2度と町に戻らない条件で釈放された。

同年7月、ミズーリ州カンザスシティで逮捕されたが、偽名の「ハリー・K・ラム」に前歴がないので釈放された。1920年12月、ミズーリ州セントジョセフの強盗で「トーマス・ベル」の偽名で逮捕された。 1927年2月に逮捕されたときは「ロバート・J・マースデン」を名乗り釈放されたが、のちに1914年のサンフランシスコの強盗事件の犯人と同一人物だと判明した。

1929年5月、ミルウォーキーのノースウェスタン・ナショナル銀行から30万ドルが奪われた事件の容疑者に挙がった。

ラムは軍隊で習得した戦術を銀行強盗に応用した人物として知られている。「ラム・テクニック」と呼ばれるその手法を使って、1918年頃から1930年までに数十回の銀行強盗を成功させ、被害額は延べ100万ドル(現在の2千万ドルを上回る)以上に及んだ。この手法は犯罪者の手本となり、全米の多くのギャングが模倣した。

最後の強盗 編集

1930年12月16日、ラム(40)、G.W.ランディ(71)、ジェームズ・クラーク(28)、ウォルター・ディートリッヒ(26)の4名はトンプソン短機関銃で武装しインディアナ州クリントンのシチズンズステート銀行を襲った。

運転手として雇われたF.H.ハンターが銀行前に新型のビュイックを停めて待機していると、通りの反対側から散弾銃を手にした男が歩いてきた。この男は理髪師のエド・ヴァンシックルで、増え続ける銀行強盗と闘うために志願した自警団のメンバーだった[3][注釈 1]。店から通りを眺めていると、だいぶ前に銀行に入って行った保険セールスマンが出てこないので不審に思い様子を見に行ったのだった。

パニックに陥ったハンターは慌ててUターンしようとして縁石に乗り上げ、前タイヤをパンクさせてしまった。そのとき仲間が銀行から出てきて車に飛び乗った。州道63号線に出てタイヤを交換し再び走り出したが、クリントン警察のパトカーに追い付かれ後部タイヤを撃ち抜かれた。

そこで老人が運転する1927年型ビュイック・セダンを奪った。しかしその車は年老いた父親が無謀運転しないようにと息子がスピードリミッターを付けており、時速56キロ(35マイル)までしか出ないようになっていた。

スピードが出ないのですぐに車を乗り捨て、次は干し草を降ろしていたシボレーのトラックを奪った。無線を聞いて駆け付けた元副保安官のジョー・ウォーカー(35)に発見されるが、撃ち合いになりウォーカーは射殺された。トラックは90キロ南のイリノイ州スコットランド近郊のトウモロコシ畑でオーバーヒートして動かなくなった[4]

彼らが4台目のフォードを盗んだ頃には警察の無線連絡が行き渡っており、大掛かりな捜索が始まっていた。フォードはイリノイ州サイデルの農場でガス欠になり再び農場の車を盗もうとしたが、既に周辺はインディアナ州とイリノイ州から集まった150人あまりの警官と自警団に包囲されていた。

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激しい銃撃戦が始まった。養豚場に駆け込んだラムとランディは、逃げ切れないと悟り自分で頭を撃ち自殺した。運転手のハンターは8発撃たれ死亡した。ウォルター・ディートリッヒとジェームズ・クラークは生き残り逮捕された。その後ジョー・ウォーカー保安官殺害容疑で終身刑を言い渡されインディアナ州刑務所に送られた。

ラム、ランディ、ハンターの遺体の引き取り手は現れず、イリノイ州ダンヴィルの墓地に墓標がないまま埋葬された[5]。新聞は「ハーマン・ラムは安物のローブを着て、松の木箱を黒く塗って作った棺桶に入れられた」とひどく貧相だった葬儀の様子を伝え、「強盗で奪ったうちの千ドル(現在の2万ドル)をウォーカーの遺族に寄付する」と報じた[1]

銀行強盗の手口 編集

ハーマン・ラムは1917年にユタ州の刑務所に入っていた頃、新しい銀行強盗の方法を考え始めた。当時の銀行強盗は衝動的な犯行がほとんどで成功も失敗も運次第だったが、ラムは軍事作戦と同じようにきちんと計画を練って実行すれば高い確率で成功すると確信した。

まずはギャングの仲間を通じて信頼できる部下を集めた。信頼できる部下は、密造酒業で悪名高いロシア系アメリカ人のギャング、チャールズ・ビルガー(Charles Birger,1881-1928)[注釈 2] などから斡旋してもらったという[6]。部下にはロビー担当、金庫室担当、見張り、運転手などの役割分担を与え、各自が持ち場に専念できるようにした。彼らはラムが軍隊で教わった射撃や非常時の対処法を学び、実際の強盗を想定した模擬訓練をした。

ターゲットとなる銀行が決まるとまずは下調べを行なった。客として出入りして間取りや金庫の場所、警備員の動きなどを調べ、さらに詳しく知りたいときは警備会社のセールスマンや新聞記者を装って銀行の裏側まで入り込んだ。

逃走用の地図を作ったのもラムが最初であった。複数の逃走ルートを記した地図をダッシュボードに貼り付け、運転手を雇って数日をかけてストップウォッチで計測しながら試運転させた。逃走用車両は「何の変哲もないがパワーのある車」を事前に盗んでおいた[1]

これらの戦術的手法は「ラム・テクニック」と呼ばれ、全米の多くのギャングが模倣した。中でも有名なのはデリンジャーギャングであった。逮捕されたウォルター・ディートリッヒとジェームズ・クラークが、インディアナ州刑務所で一緒になったハリー・ピアポントジョン・デリンジャーに伝授したと考えられている[7]。彼らは刑務所を脱獄したあと「デリンジャーギャング」を結成し、1933年から1934年にかけて中西部の複数の銀行を襲った。また、今日の映画やドラマで見られる銀行強盗の手口のほとんどがラム・テクニックの応用と言っても良い。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時は連邦捜査局や州警察が機能していなかったため、ギャングに対抗する手段として地元警察が自警団を募集した。
  2. ^ 1928年にアメリカで最後の公開絞首刑に処された人物。

出典 編集

  1. ^ a b c Night, Bumps in the. “John Dillinger’s Tutor: The Baron | Weekly View” (英語). 2024年4月15日閲覧。
  2. ^ You Can Thank One Man for Nearly All the Cops & Robbers Movies You’ve Ever Seen” (英語). Dusty Old Thing (2017年8月7日). 2024年4月16日閲覧。
  3. ^ Archive of my live-tweets on the Baron Lamm bank robbery - Justin Harter” (英語) (2021年12月21日). 2024年4月15日閲覧。
  4. ^ Cunningham, Raymond (2010-10-24), Location of the Lamm Gang Shootout, https://www.flickr.com/photos/zaruka/5112329446/ 2024年4月16日閲覧。 
  5. ^ 名前。生年。死亡年。「Find a Grave」 メモリアル”. ja.findagrave.com. 2024年4月15日閲覧。
  6. ^ You Can Thank One Man for Nearly All the Cops & Robbers Movies You’ve Ever Seen” (英語). Dusty Old Thing (2017年8月7日). 2024年4月16日閲覧。
  7. ^ mikulpepper (2011年9月15日). “The Baron of Bank Robbery” (英語). Shrine of Dreams. 2024年4月16日閲覧。