フェオドラ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1890-1972)

フェオドラ・フォン・ザクセン=マイニンゲンドイツ語: Feodora von Sachsen-Meiningen, 1890年5月29日 - 1972年3月12日)は、ザクセン大公ヴィルヘルム・エルンストの2度目の妃。

フェオドラ
Feodora
ザクセン大公妃
在位 1910年1月4日 - 1918年11月9日

全名
出生 (1890-05-29) 1890年5月29日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ハノーファー
死去 (1972-03-12) 1972年3月12日(81歳没)
西ドイツの旗 西ドイツフライブルク
配偶者 ヴィルヘルム・エルンスト
子女 ゾフィー
カール・アウグスト
ベルンハルト
ゲオルク・ヴィルヘルム
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 フリードリヒ
母親 アーデルハイト
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生涯 編集

フェオドラはザクセン=マイニンゲンゲオルク2世の四男フリードリヒと、その妃のアーデルハイト・ツア・リッペ=ビースターフェルト英語版(1870年 - 1948年)の間の長女として生まれた。全名はフェオドラ・カロラ・シャルロッテ・マリー・アーデルハイト・アウグステ・マティルデ(Feodora Karola Charlotte Marie Adelheid Auguste Mathilde)。母アーデルハイトはリッペ侯国摂政のリッペ=ビースターフェルト伯エルンストの娘で、かつ最後のリッペ侯レオポルト4世の姉である。

 
フェオドラとヴィルヘルム・エルンスト(1910年)

1910年1月4日、マイニンゲンザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公ヴィルヘルム・エルンストと結婚した。ヴィルヘルム・エルンストは1903年に結婚した最初の妃カロリーネ・ロイス・ツー・グライツとの間に子供をもうけないまま死別しており、この結婚は再婚であった。

夫ヴィルヘルム・エルンストが1918年にドイツ革命に伴って退位すると、フェオドラは家族と一緒にシュレージエンの所領に逃れた。その4年後の1922年には夫と死別した。

子女 編集

夫であるザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公ヴィルヘルム・エルンストとの間に4人の子女をもうけた。

脚注 編集

  1. ^ ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルクの長男。
  2. ^ 夫妻の娘カタリーナはホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯子エマヌエル(フランツ・ヨーゼフ・フォン・ホーエンツォレルン=エムデンの三男)と結婚。

外部リンク 編集

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