ペドロ・モヤ・デ・コントレラス

ペドロ・モヤ・デ・コントレラスPedro Moya de Contreras1520年ごろ - 1591年12月21日)またはペドロ・デ・モヤ・イ・コントレラスPedro de Moya y Contreras[1])は、スペインの聖職者、政治家。ヌエバ・エスパーニャの初代異端審問官、第3代メキシコ大司教(1573-1589年)、第6代ヌエバ・エスパーニャ副王(1584-1585年)、監査官(1584-1586年)、インディアス枢機会議長官などを歴任した[2]

ペドロ・モヤ・デ・コントレラス

生涯編集

モヤはコルドバ県ペドローチェ英語版の貴族の家庭に生まれた[2]。彼の叔父であるアシスクロ・デ・モヤ・イ・コントレラスはビック司教としてトレント公会議に出席し、後にバレンシア大司教に任命された[2][3]

青年時代にインディアス枢機会議長官であるフアン・デ・オバンドに仕え、サラマンカ大学で博士の学位を取得した[2][4]。その後カナリア諸島の大聖堂の校長、ついでムルシアの異端審問官を歴任した[2][4]

フェリペ2世宗教改革の動きがヌエバ・エスパーニャに飛び火することを恐れ、1570年にモヤをヌエバ・エスパーニャの異端審問官に任命した[4]。モヤは1571年にメキシコシティに到着した[4]。当時のメキシコ大司教アロンソ・デ・モントゥファル (Alonso de Montúfarはすでに老齢だったため、モヤは大司教の仕事を兼任し、モントゥファルが死ぬと後継の大司教に任命された[1][4]。このことによってモヤは非常に大きな権力を持つようになった。

異端審問官としてモヤはカトリックに批判的な書物を差し押えた[4]。1574年に最初のアウト・デ・フェを行った[2][4]

モヤは先住民にキリスト教の教義・読み書き・歌・実業を教えるための教育機関を設立した[2][4]。また教会の建設と修復も行った[4]。モヤはいくつかの女子修道院の設立に寄与した[2]。モヤは先住民と話すためにナワトル語を学んだ[2]

1584年にアウディエンシアと大学の監査官(visitador)に任命された[4]。さらに第5代副王のコルーニャ伯爵ロレンソ・スアレス・デ・メンドーサが急死したため、1584年9月25日から新たな副王としてビリャマンリケ侯爵アルバロ・マンリケ・デ・スニガが赴任する1585年10月16日まで臨時にヌエバ・エスパーニャ副王を兼ねた[2][4]

モヤはトレント公会議の決定をヌエバ・エスパーニャにおいて施行するための第3メキシコ公会議を1584年から1585年にかけて開催した。この会議では先住民が深刻な状況にあることが問題視され、先住民の尊重と奴隷化の禁止を宣言した。また先住民すべてが宗教的な教育を施される必要があるとされた[4]

1589年にスペインに帰国した[4]。帰国するにあたって彼は財産の大部分を大聖堂・病院・教区・修道院などに寄贈した[2]。帰国後、フェリペ2世は彼をインディアス枢機会議長官に任命した[2]

1591年にマドリードで貧困のうちに没した。彼の葬儀の費用と債務の返済は国費によってまかなわれた[2][4]

脚注編集

  1. ^ a b Archbishop Pedro de Moya y Contreras, The Hierarchy of the Catholic Church, https://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bconpm.html 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Manuel Leal Lobón, “Pedro Moya de Contreras”, Diccionario Biográfico Español de la Real Academia de la Historia, https://dbe.rah.es/biografias/6474/pedro-moya-de-contreras 
  3. ^ Archbishop Acisclo de Moya y Contreras, The Hierarchy of the Catholic Church, https://www.catholic-hierarchy.org/bishop/bdemoya.html 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n Doralicia Carmona Dávila, “Moya de Contreras Pedro”, Memoria Política de México, https://www.memoriapoliticademexico.org/Biografias/MCP20.html