ポーランド第二共和国
- ポーランド共和国
- Rzeczpospolita Polska
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←1918年 - 1939年 →
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→(国旗) (国章) - 国歌: Mazurek Dąbrowskiego
ドンブロフスキのマズルカ
ポーランド共和国の位置(1930年)-
言語 ポーランド語
この他にドイツ語・ロシア語・イディッシュ語・リトアニア語・ウクライナ語・ベラルーシ語の話者も居住首都 ワルシャワ - 大統領
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1918年11月14日 - 1922年12月11日 ユゼフ・ピウスツキ(国家元首) 1926年6月4日 - 1939年9月30日 イグナシィ・モシチツキ - 首相
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1918年11月18日 - 1919年1月16日 イェンジェイ・モラチェフスキ(初代) 1936年5月15日 - 1939年9月30日 フェリツィヤン・スワヴォイ・スクワトコフスキ(最後) - 面積
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1921年 387,000km² 1931年 388,634km² 1938年 389,720km² - 人口
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1921年 27,177,000人 1931年 32,107,000人 1938年 34,849,000人 - 変遷
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ユゼフ・ピウスツキがポーランド共和国の成立を宣言 1918年11月11日 ポーランド・ソビエト戦争 1919年2月 - 1921年3月18日 ユゼフ・ピウスツキ、5月クーデターにより首相に就任 1926年5月12日 ナチス・ドイツの侵攻開始、第二次世界大戦勃発 1939年9月1日 ポーランド国内における戦闘行為の終結、ポーランド共和国滅亡 1939年10月6日
通貨 マルカ(1918年 - 1924年)
ズウォティ(1924年 - 1939年)時間帯 UTC +1(DST: +1) 現在 ポーランド
ベラルーシ
ウクライナ
リトアニア
ポーランドの歴史 | ||
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ピャスト朝 10世紀 - 1370年 |
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プシェミスル朝 1300年 - 1306年 | ||
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年 | ||
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年 | ||
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年 | ||
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年 | ||
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年 | ||
ポーランド立憲王国 1815年 - 1867年 |
クラクフ共和国 1815年 - 1846年 |
ポズナン大公国 1815年 - 1848年 |
第一次世界大戦 1914年 - 1918年 | ||
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年 | ||
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年 | ||
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 | ポーランド亡命政府 | |
ポーランド総督府 1939年 - 1945年 | ||
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年 | ||
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在 | ||
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ポーランド第二共和国(ポーランドだいにきょうわこく、ポーランド語: II Rzeczpospolita)は、1918年から1939年までの間、現在のポーランド共和国(第三共和国)を中心とする地域に存在した国家である。「第二共和国」とはポーランド・リトアニア共和国(第一共和国)と対比しての呼称で、正式な国号は現在と同じポーランド共和国(波: Rzeczpospolita Polska)。
領土は現在のポーランド共和国と比較して東寄りであった。この領土の変遷については、オーデル・ナイセ線およびカーゾン線を参照。
歴史
編集第一次世界大戦中、実質的にロシア帝国に支配されていたポーランド立憲王国に代わり、ポーランド王国(摂政王国)建国が提案されたが、これは短命に終わった。1915年夏にドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国に占領されていたポーランドは独立を求めていたが、1917年にロシア革命が、1918年にドイツ革命が勃発し、これによってチャンスを得たユゼフ・ピウスツキはワルシャワへ移動し、初代の国家元首に就任した。ピウスツキはポーランドを率いてウクライナ・ポーランド戦争、ポーランド・ソビエト戦争で次々と勝利した。ポーランド・リトアニア戦争の停戦協定が結ばれると、新たに建国された中部リトアニア共和国を選挙によりポーランドへ編入した。さらに、3回にわたって蜂起した上シレジア地方をドイツと分割し、その工業地帯の大半をポーランドに編入した。
ところがピウスツキの同僚だったロマン・ドモフスキは議院内閣制の導入を検討していた。つまり大統領の権限を大幅に制限しようとしていたのである。これを知ったピウスツキは大統領就任を辞退して政界を引退した。その後もピウスツキとドモフスキとの間に対立が続いた。ピウスツキはかつてのポーランド・リトアニア共和国のような民族的寛容さを支持していたのに対し、ドモフスキは近代の民族主義・国民国家を主張していたからである。
結局、1926年にクーデター「五月革命」によってピウスツキが1935年まで政権を掌握した。
1932年と1934年にソ連・ポーランド不可侵条約とドイツ・ポーランド不可侵条約を結んだ。これにより、1938年のミュンヘン会談では有利な結果になり、テッシェンを人民投票によって獲得した。しかし、1939年9月1日から始まったドイツによるポーランド侵攻、続いて同年9月17日からソビエト連邦によるポーランド侵攻が始まった。
ソビエトが駐ソビエトポーランド大使に渡した通牒には「ポーランド国はすでに現存せるものと認めない。ゆえにソビエトはポーランドとの間の諸条約は解消したものと認める」との一文が付け加えられていた[1]。
第二共和国は崩壊したが、その後もポーランドは降伏せず、ロンドンに設置された亡命政府や地下政府がドイツを相手に戦い続けた。戦後もソ連のヨシフ・スターリン主導で共産政権が設置されてしまったため、ポーランド亡命政府は実に1990年までロンドンを拠点とした「亡命」を継続することになる。
領域
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1918年11月中旬のポーランド共和国
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ポーランドの第一次大戦から第二次大戦にかけての領土変遷
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ポーランドの行政区画の変遷
国旗
編集国章
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1919年~1927年の国章
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1927年~1939年の国章
脚注
編集- ^ ソ連軍が突如ポーランド領に侵入(『東京日日新聞』昭和14年9月18日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
関連項目
編集外部リンク
編集- World War II Erupts: Color Photos From the Invasion of Poland, 1939. - LIFE.TIME.com(ライフ画像アーカイブ).2014年9月3日閲覧