マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク (1270-1315)

マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク(Margarete von Brandenburg, 1270年ごろ - 1315年5月1日)は、ポーランド王プシェミスウ2世の王妃、のちザクセン=ラッツェブルクアルブレヒト3世の妃。ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯アルブレヒト3世とメヒティルト・フォン・デーネマルクの末子で次女[1]

マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク
Margarete von Brandenburg
ポーランド王
在位 1295年 - 1296年

出生 1270年ごろ
死去 1315年5月1日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ラッツェブルク公領、ラッツェブルク大聖堂
結婚 1293年
配偶者 プシェミスウ2世
  ザクセン=ラッツェブルクアルブレヒト3世
子女 アルブレヒト
エーリヒ
家名 アスカーニエン家
父親 ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯アルブレヒト3世
母親 メヒティルト・フォン・デーネマルク
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生涯

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大ポーランド公プシェミスウ2世1292年ごろに2番目の妃リキッサ・アヴ・スヴェーリエが亡くなった後、3番目の妃としてマルガレーテと結婚した。3度目の結婚相手としてマルガレーテを選択したのは主に政治的理由によるもので、有力なアスカーニエン家の一員であり、ポメレリア家の血を引くこと(マルガレーテの母方の祖母はマルグレーテ・サンビリアで、デンマーク王クリストファ1世の王妃)であったことから、大ポーランドの統治者に将来グダニスク・ポメラニアの相続権をもたらすと考えられたためである。

プシェミスウ2世とマルガレーテ(2人ともボヘミア王プシェミスル・オタカル1世の曾孫)との血縁関係より、2人が結婚するためには教皇の認可が必要であった[2]。結婚式は1293年4月13日の少し前に行われた。一部の歴史家によれば、おそらくこの機会に、プシェミスウ2世の娘リクサとマルガレーテの兄オットーとの婚約も祝われたという[3]

マルガレーテは、聖ヨハネと聖パウロの日である1295年6月26日の日曜日にグニェズノ大聖堂で夫とともにポーランド王妃として戴冠式を行った[4]。ポーランド王と王妃の戴冠式は219年ぶりであった。マルガレーテは、11世紀のリヘザ・ロタリンスカ以来、誰もが認めるポーランドの王妃となった。

プシェミスウ2世の治世は長くは続かなかった。1296年2月8日、ポーランド貴族のナウェチュ家とザレンバ家の協力を得て、マルガレーテの一族の男たちに誘拐され、ロゴジノでヤクブ・カシュバにより殺害された。ドイツの年代記作者リューベックのディートマールは、マルガレーテは家族関係のため夫を殺害した陰謀に参加したと指摘している[5]。マルガレーテは暗殺を行った一族の出身であったため、参加せざるを得なかった。

王太后となったマルガレーテはポーランドに滞在し(ピャスト家の慣例に従って大ポーランドの一部を寡婦財産として受け取った)、義理の娘リクサ(後に兄オットーの妻となる予定であった)の面倒を見た。その直後、理由は不明であるが、マルガレーテはリクサを連れてブランデンブルクに戻った。

マルガレーテは故郷に到着すると、メクレンブルク家のロストック領主ニコラウス1世と婚約した。しかし、1299年にニコラウス1世により婚約は破棄され、ニコラウス1世はポメラニア公女との結婚を選択した。この頃、マルガレーテの継娘リクサは、夫となる予定であったマルガレーテの兄オットーの死後に、ポーランドに帰国した。

しばらくして、今度はザクセン=ラッツェブルクアルブレヒト3世との結婚が取り決められた。アルブレヒト3世は、1296年にザクセン公領が分割されて成立したザクセン=ラウエンブルク公領を兄弟のエーリヒ1世およびヨハン2世と共同で統治していた。アルブレヒト3世とマルガレーテは血縁関係にあったため(どちらもアスカーニエン家の出身)、1302年9月24日にアナーニで教皇より結婚の認可が与えられた。おそらくその後すぐに結婚式が行われたとみられる。夫妻の間には以下の2人の息子が生まれた。

  • アルブレヒト(1344年没) - ゾフィー・フォン・ツィーゲンハインと結婚。おそらく子女なし。
  • エーリヒ(1338年没) - 未婚

1303年、アルブレヒト3世とその兄弟たちはザクセン=ラウエンブルクを3つの分領に分割した。その後、アルブレヒト3世とマルグリットはザクセン=ラッツェブルクを統治した。1308年にアルブレヒト3世が亡くなると、弟のエーリヒ1世がアルブレヒト3世の遺領の一部を相続し、マルグリットが子供たちを育てるために残りの一部を手に入れた。

マルグリットは1315年に亡くなり、ラッツェブルク大聖堂に埋葬された。マルグリットの死後、エーリヒ1世がラッツェブルクも相続した[6]

脚注

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  1. ^ W. Dworzaczek: Genealogia, Warsaw 1959, tabl. 58; K. Jasiński: Genealogia Piastów wielkopolskich. Potomstwo Władysława Odonica, [in:] Nasi Piastowie ("Kronika Miasta Poznania", nr 2/95), Poznań 1995, p. 156.
  2. ^ K. Jasinski Additions to the genealogy of the Piast, "Studies źródłoznawcze, 1960, p. 105
  3. ^ A. Swieżawski: Przemysł. Król Polski, Warszawa 2006, p. 152.
  4. ^ Rocznik Traski, [in:] MPH, vol. II, p. 853; Rocznik Sędziwoja, [in:] MPH, vol. II, p. 879; Rocznik wielkopolski 1192–1309, edited by A. Bielowski, [in:] MPH, vol. III, p. 40.
  5. ^ K. Jasiński: Tragedia rogozińska 1296 roku na tle rywalizacji wielkopolsko-brandenburskiej o Pomorze Gdańskie, [in:] "Zapiski Historyczne", vol. XXVI, t. 4, Toruń 1961, p. 72.
  6. ^ Cordula Bornefeld, "Die Herzöge von Sachsen-Lauenburg", in: Die Fürsten des Landes: Herzöge und Grafen von Schleswig, Holstein und Lauenburg [De slevigske hertuger; German], Carsten Porskrog Rasmussen (ed.) on behalf of the Gesellschaft für Schleswig-Holsteinische Geschichte, Neumünster: Wachholtz, 2008, pp. 373-389, here p. 377. ISBN 978-3-529-02606-5