マルクヴァルト4世・フォン・エッペンシュタイン(ドイツ語:Markwart IV. von Eppenstein, 1010/20年 - 1076年)は、フィーバッハガウ伯、1039年からケルンテン伯、1070年からイストリア=クライン辺境伯、そして1072年から1076年までケルンテン公であった。

マルクヴァルト4世
Markwart IV.
ケルンテン公
在位 1072年 - 1076年

出生 1010/20年
死去 1076年
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、グライト、聖マルティン教会
配偶者 リウトビルク・フォン・プライン
家名 エッペンシュタイン家
父親 ケルンテン公アダルベロ
母親 ベアトリクス・フォン・シュヴァーベン
宗教 キリスト教カトリック
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生涯 編集

マルクヴァルト4世はエッペンシュタイン家ケルンテン公アダルベロとベアトリクス・フォン・シュヴァーベン(シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘)の長男である。

1039年神聖ローマ皇帝コンラート2世が死去した後、エッペンシュタイン家は1035年に没収された全ての領地を新王ハインリヒ3世から返還され、マルクヴァルト4世はケルンテンの伯として実質的なケルンテンの支配者となった。1065年ごろ、マルクヴァルト4世はフィラハの北10kmのところにトレッフェン城を建設した。1070年にはイストリア=クライン辺境伯となり、1072年に皇帝ハインリヒ4世のハンガリー遠征に参加し、同年末に廃位されたツェーリンゲン家ケルンテン公ベルトルト2世のあとをうけてケルンテン公に任ぜられた。マルクヴァルトはブリクセンのフォークト(1067年)であったが、1074年にはアクイレイアのフォークトともなった。また、ザンクト・ランブレヒト修道院英語版を創建しその管財人となり、1076年に死去した。

聖ランブレヒト修道院に伝わる伝承によると、マルクヴァルトと妃リウトビルクは、ノイマルクトの東のグライトにある聖マルティン教会に埋葬されたという。妃リウトビルクはそこに女子修道院を創建した。

結婚と子女 編集

マルクヴァルト4世は1045/50年にプライン伯リウトルト2世の娘リウトビルクと結婚し、以下の子女をもうけた。

  • リウトルト(1045/50年 - 1090年) - ケルンテン公(1077年 - 1090年)
  • ハインリヒ3世(1050年頃 - 1122年) - ケルンテン公(1090年 - 1122年)
  • マルクヴァルト(1076年6月16日以前没)
  • ウルリヒ(1121年12月21日没) - ザンクト・ガレン修道院長(1077年 - 1121年)、アクイレイア総大司教(1086年 - 1121年)
  • ヘルマン(1055年頃 - 1087年) - パッサウ司教(1085年 - 1087年)

参考文献 編集

  • Andreas Thiele: Erzählende genealogische Stammtafeln zur europäischen Geschichte. Stammtafeln zu europäischen Geschichte. Fischer-Verlag, Frankfurt/M. 1993, ISBN 3-89406-460-9.
  • Karlmann Tangl: Die Grafen, Markgrafen und Herzoge aus dem Hause Eppenstein. ADEVA, Graz 1964/65 (5 Bde.).
  • Wilhelm Wegener: Genealogische Tafeln zur mitteleuropäischen Geschichte. Verlag Reise, Göttingen 1962/69 (4 Bde.).
  • Othmar Pickl: Geschichte der Hengistburg.
先代
ポッポ1世
イストリア辺境伯
1045/60年 - 1070年
次代
ハインリヒ3世
先代
ベルトルト2世
ケルンテン公
1072年 - 1076年
次代
ベルトルト2世