三上輝房

戦国時代の人物

三上 輝房(みかみ てるふさ)は、戦国時代の人物で、因幡国巨濃郡岩井庄の三上氏の当主。室町幕府奉公衆。輝の字は、将軍・足利義輝偏諱と思われる。

 
三上輝房
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 こ不二郎(通称)、兵庫頭
幕府 室町幕府奉公衆
主君 足利義輝
氏族 日野山名家三上氏
父母 父:山名摂津守、養父:三上経実
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生涯 編集

元は伯耆山名氏の一族・日野山名家[1]の山名摂津守の息子であり、こ不二郎と名乗っていたが、天文10年(1541年6月29日三上経実道竹城合戦で戦死したため、生前に経実と親交のあった大舘尚氏らの支援により養子として経実の跡を相続[2]した。

永禄6年(1563年5月の「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」には幕府奉公衆、五番衆としても見え、三上氏の伝統である兵庫頭を名乗り、これも伝統である五番衆として登場している。また、9年後の元亀3年(1572年3月22日にも幕府衆の一員として確認されている。(『兼見卿記』)

脚注 編集

  1. ^ 伯耆山名氏の傍系で伯耆国日野郡に所領を持っていた一族。山名師義の子・義幸が始祖で「日野屋形」と呼ばれ、代々「摂津守」の受領を継承していた。
  2. ^ 輝房が相続したのは「常興日記」によれば天文11年(1542年)の4月以前のことである。同年4月13日には相続した輝房の初出仕があり、その後相続仲介のお礼として尚氏に太刀を献上している。

参考文献 編集

  • 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』自費出版、1986年