三好 生勝(みよし なりかつ)は、戦国時代武将三好氏宗家(河内三好家)の継承者とされる[1]

 
三好 生勝
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 寛永8年(1631年
別名 孫九郎、助兵衛尉、三孫入道善元
主君 織田信長豊臣秀吉黒田長政
氏族 多羅尾氏三好氏
父母 父:多羅尾綱知、母:三好義継
義父:三好義継
養父:三好宗渭
兄弟 多羅尾光信
野間康久の娘
生高、七郎右衛門
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概要 編集

広島藩士の三好氏に伝わる系図によれば、生勝は若江三人衆の1人である多羅尾綱知と三好宗家当主である三好義継の妹との間に生まれたとされる。系図によれば、三好義継の名跡を継いでいる。また三好三人衆の1人である三好宗渭に養育されたという。義継の名跡を継いだことは織田信長に認められており、河内国で5490石を領している。石山本願寺との戦いでは負傷しながらも軍功をあげ、信長から感状と甲冑・陣羽織・短刀を賜わっている[1]

天正20年(1592年)7月の朝鮮出兵では肥前国名護屋城まで出張していた。関ヶ原の戦い後は豊臣秀頼に仕えていたが、後に黒田長政に客分として仕え、慶長14年(1609年)9月に2000石を与えられた。慶長14年(1614年)の大坂冬の陣では、河内国の案内人として黒田軍の先陣を勤め、働きがあったという[1]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ a b c 「広島藩士 三好家文書展[1]

外部リンク 編集