中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日万延2年1月18日) - 1906年明治39年)11月7日)は、高知県出身の政治家実業家

経歴 編集

1861年万延2年)、土佐国(現高知県)出身。明治法律学校(現・明治大学)卒業。

自由民権運動に従事し、板垣退助らの知遇を得る。1891年、県会議員に当選。更に同参事会員などを務めた他、実業界に於いては、土佐紙業組合頭取などを務めた他、1902年には高知銀行(現・四国銀行)頭取に就任[1]。1905年、衆議院議員に当選(高知県郡部選出、立憲政友会)。

その他、高知商工会議所会頭、土陽新聞高知新聞)専務、土佐農工銀行頭取なども務めた他、国道高知ー徳島線の開通、平山発電所の建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに大きな貢献を果たし、若くして高知県政財界のリーダーとして重きをなしたが、1906年、上京中に急性化膿中耳炎のため46歳で急逝した。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 『高知商工会議所百年史: 高知県経済一世紀の步み』高知商工会議所, 1991
  • 『四国銀行百年史』(株)四国銀行 ,1980