仙石久隆
仙石 久隆(せんごく ひさたか、文禄3年(1594年) - 正保2年5月21日(1645年6月15日))は、江戸時代前期の旗本。
信濃国小諸藩初代藩主・仙石秀久の七男。子に仙石久邦、娘(竹中重堅妻)、娘(天野長重妻)。通称は右近、弥兵衛。官位は従五位下、大和守。
生涯
編集文禄3年(1594年)、信濃国小諸藩初代藩主・仙石秀久の七男として誕生。
慶長9年(1604年)、将軍・徳川家康に拝謁し、徳川秀忠の側近として仕える。先に召しだされた五兄の丹波守政能の采地である上総武射郡・上野国3000石を相続する。両大坂の陣に三兄の忠政と共に出陣し、元和3年(1617年)、書院番に列し、2代将軍・秀忠上洛に供奉する。また寛永3年(1626年)、3代将軍・徳川家光の上洛と参内にも供奉し、御使番となる。
寛永4年(1627年)、会津若松城に加藤嘉明が入封する際に引渡役を務める。寛永6年(1629年)、目付となる。寛永7年(1630年)、相模国底倉温泉において将軍の旅館造営を奉行し、同年加藤嘉明が病床に臥すと幕命で会津に赴く。寛永9年(1632年)、熊本城に細川忠利が入封する際に板倉重昌に従って赴く。寛永10年(1633年)、幕命で徳川忠長の配所高崎城に赴き、同年12月26日、甲斐国1000石を加増される。
寛永11年(1634年)1月25日、家光の上洛の際、駿河国薩埵山、遠江国本坂の道普請を承る。寛永12年(1635年)5月10日、幕命で長崎に赴き、同年5月20日から12月25日まで長崎奉行を務める。寛永13年(1636年)4月10日、小姓組番頭となる。
参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第307」
- 『国史大辞典』10巻 吉川弘文館、1989年 ISBN 4-642-00510-2