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伊木 遠雄(いき とおかつ / とおたけ / とおお)[10]は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将豊臣家の譜代家臣。通称は半七。七郎右衛門[3][4][5](七郎衛門[6])とも称したが、伊木半七の名の方が知られる。入道して常紀[4][6][5](常糺[7])と号した。

 
伊木遠雄
Iki Hanshichi.jpg
賤ヶ岳合戦図屏風より伊木半七(遠雄)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄10年(1567年
死没 慶長20年5月7日1615年6月3日)または5月6日6月2日)、あるいは不明
改名 半七→遠雄→常紀
別名 尚遠[1]、常重[1]、遠勝[2]
通称:半七、七郎右衛門[3][4][5](七郎衛門[6])、号:常紀[4][6][5](常糺[7]
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 武間氏(武馬氏)→伊木氏
父母 武間和泉守[7][8](常春[7]、常久[8]、尚遠、常重)
兄弟 遠雄、常成(七郎右衛門)[8]、重遠(安右衛門)[8]、若狭[8] (順序不明)
滝川忠征の娘
庄次郎[9]

出自編集

出自はよくわからないが、一説に武間和泉守を父とする[7][8]。武間は武馬ともされ、この人物を武馬七郎右衛門常重あるは武馬七右衛門尚遠とするものもある。

永禄4年(1561年)に織田信長伊木山を攻めた際、抜群の功績を挙げた香川長兵衛ら3名に、伊木と改名して兄弟の契りをなすようにと命じたことから、伊木に改姓したとする同じ話を載せた子孫の伝承が仙台藩[8]萩藩[11]にあり、その1人が遠雄の父または本人とされる[12][1]平重道はこの1人を常久(三郎右衛門または七右衛門)として遠雄の父と推測した。

略歴編集

豊臣秀吉近習として仕え、天正11年(1583年)、17歳で臨んだ賤ヶ岳の戦いで敵将を討つという戦功を挙げ、黄母衣衆の一人になった[6][5]俗説であるが、『志士清談』では石川兵助桜井佐吉(家一)と共に、賤ヶ岳の「三振太刀(みふりだち)」の一人とされる[4]。ただし、史学的には三振太刀のこと自体が存在しなかったと考えられている[4]

文禄元年(1593年)、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に滞陣し[4][6]、三ノ丸御番衆の御馬廻組六番の堀田組(堀田盛重)の配下であった[13]

慶長4年(1599年)8月7日、五大老の連署により、河内国志紀郡林村に300石を給された[4][5]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、敗戦で浪人となった[4][6][5]

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼の招きを受けて[5]子・庄次郎と共に大坂城へ入城し[4][6]大坂の陣に際しては真田信繁の軍監とされた。大坂冬の陣では真田幸昌と共に軍功を挙げた。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣での行動については諸説あって、真偽のほどは定かではない[5]道明寺の戦いに参加して天王寺・岡山の戦いで、討死したとも行方不明になったとも言う[3]が、別の説(『山口休庵咄』など)では、5月7日の落城の前日(6日)に逃亡して[6][14]七手組真野頼包と刺し違えて死去した[4][6]ともされる。

脚注編集

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  1. ^ a b c 香川長兵衛の義兄弟が遠雄・本人であるとすると、経歴と年齢が合わない。本人説で出てくる場合は、名は尚遠や常重。
  2. ^ 「とおかつ」の同音漢字の置き換え。
  3. ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 伊木遠雄』 - コトバンク
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 高柳 & 松平 1981, p. 21
  5. ^ a b c d e f g h i 桑田 1971, p. 72
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 阿部 & 西村 1990, p. 73
  7. ^ a b c d e 柏木輝久、北川央(監修)編、 『大坂の陣 豊臣方人物事典』 宮帯出版社、2016年。ISBN 4801600077 
  8. ^ a b c d e f g 平重道(責任編集) 『伊達治家記録』23巻 宝文堂出版販売、1972年。 
  9. ^ 通称を庄次郎。諱は一説に尚重。父と同じく関ヶ原で浪人後、秀頼の招きで大坂の陣に参加。落城後は逃亡し、伊木三郎右衛門と名乗って、真田氏に仕えた[6]
  10. ^ 遠雄は「とおかつ」だけでなく「とおたけ」や「とおお」とも読む[3]。『戦国人名事典』では「とおかつ」[6]。『戦国人名辞典』では「とおお」[4]
  11. ^ 岡部忠夫編 『萩藩諸家系譜』 琵琶書房、1983年。 
  12. ^ ただし、池田藩の筆頭家老となった伊木氏との関連がわかる史料は見つかっていない。
  13. ^ 吉村 1934, p. 142.
  14. ^ 『戦国人名辞典』では「5月6日決戦、翌日逃走して」[4]と書かれているが、夏の陣の決戦は7日であり、文の意味がわからない。

参考文献編集