傅彤
生涯
編集章武元年から2年(221年-222年)[2]にかけて行われた夷陵の戦いで別督[3]に任じられる。蜀軍が陸遜の火計によって大敗を喫すると[4]、劉備を逃すための殿軍となる。配下の兵は死に絶え、敵将から降伏を呼びかけられた傅彤は「呉の狗め!漢の将軍に降る者がいるか!」と答えてこれを拒み、戦死に至った。
三国志演義
編集羅貫中の小説『三国志演義』では第81回から、夷陵の戦いに従軍する中軍護尉として登場[5]。第84回では呉の淳于丹の攻撃を、手ずから槍を取って撃退する。
その後は史実と同じく、敗走する劉備を逃すために殿軍となり、降伏勧告を拒否して戦死。作中の詩でその忠義は「傅彤不愧漢将軍(傅彤は漢の将軍に恥じず)」と称えられる[6]。
出典
編集- 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 楊戯伝 s:zh:三國志/卷45#季漢輔臣贊
脚注
編集- ^ 『華陽国志』や『三国志演義』では傅彤、『三国志』では傅肜とする。本記事中では前者で統一する。
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝 s:zh:三國志/卷32
- ^ 個々の軍団の指揮官。ちくま学芸文庫『正史 三国志 7』272頁より。
- ^ 『三国志』呉書 陸遜伝 s:zh:三國志/卷58
- ^ s:zh:三國演義/第081回
- ^ s:zh:三國演義/第084回