八代道慶

戦国時代の武将

八代 道慶(やしろ どうけい / みちよし)は、戦国時代武将

 
八代道慶
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄7年(1564年
改名 道慶(みちよし)→ 道慶(どうけい、法名)
別名 六郎左衛門(通称
主君 赤松政則小寺則職黒田職隆
氏族 八代氏
父母 父:八代道嵩、母:石原民部娘藤波
隅田氏娘[1]
吉田長利(長男)、与三太夫(次男)、六郎右衛門(三男)、
九右衛門利直(四男)、
六郎左衛門利昌(五男)、小寺則職側室
特記
事項
家ノ紋藤、裏紋井桁。八代村ノ内。四百貫采地。
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出自

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八代氏は采地を持つ播磨国飾東郡八代村[2]を本拠としていた。赤松氏を再興した赤松政則が、文明元年(1469年置塩城を築き移ったので、八代氏も置塩[3]の赤松氏に仕えた。道慶の父・八代藤三郎道嵩は、置塩下町に居住し、八代村に2百貫の采地を有した。

略歴

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八代道嵩の子として誕生した。赤松氏の家臣であった小寺則職に附従して、天正年中、八代村萱原に居を構え、八代村に采地4百貫をもった。

享禄4年(1531年)から天文14年(1545年)、小寺則職が御着城に移ったのに伴い、道慶は黒田職隆の下で姫路城留守居役を務めた。天文22年(1553年)、道慶は剃髪して号を道慶(どうけい)とし、山井村(姫路市山野井町)に法恩寺を開基する。

永禄7年(1564年)(または永禄9年(1566年)とする)、道慶は室山城浦上清宗の婚礼に同席した際、赤松政秀の襲撃を受けて左目を射られて負傷した。それを引き抜いて奮戦したが、この傷が元で後に没した[1]

脚注

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  1. ^ a b 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年、194頁
  2. ^ 現・兵庫県姫路市八代
  3. ^ 現・姫路市夢前町置塩。

出典

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