前田長種

日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将。下之一色城主前田長定の子で、加賀八家前田対馬守家3代当主。越中守山城代・富山城代・加賀小松城代

前田 長種(まえだ ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将加賀藩士。加賀八家・前田対馬守家第3代当主[1]

 
前田長種
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年(1550年
死没 寛永8年3月11日1631年4月12日
改名 長種→源峯(号)
別名 通称:甚七郎
官位 対馬守
主君 織田信長信雄羽柴秀吉前田利家利長利常
加賀藩
氏族 前田氏(与十郎家・対馬守家
父母 父:前田長定
兄弟 長種横山長知
前田利家長女・
直知長時、慶春院(溝口善勝室)、
神尾之直
養子:横山長知室(実妹)
テンプレートを表示

出自

編集

前田与十郎家は系図上では、加賀前田家美濃前田氏)の同族とされる。代々尾張国海東郡前田城下之一色城を有し、加賀前田家の本家筋にあたるといわれる。

生涯

編集

天文19年(1550年)、前田長定の子として誕生する。

前田与十郎家は織田信長の家臣で、本能寺の変後に信長の次男・信雄に仕えた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い滝川一益の誘いで羽柴秀吉陣営に寝返るが、同年の蟹江城合戦で織田信雄・徳川家康の連合軍に敗れ、父・長定は戦死し、叔父・前田定利も斬られた[2]

本拠・下之一色城にいた長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり能登国七尾城を守備する。その後、越中国守山城代となり、幼少時の加賀藩3代藩主・前田利常を養育した。富山城代を経て、慶長10年(1605年)、加賀国小松城代となり、2万石を給された。

以後、直知直正孝貞孝資孝昌孝友孝本と前田対馬守家は続いた。また嫡男・直知の四男・恒知から分かれた家系(前田将監家)は、幕末の前田恒敬に至っている。4代・孝貞の次男・孝和(勘解由)からは前田勘解由家が分かれている。

脚注

編集
  1. ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号
  2. ^ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬(2008年)