古代ギリシアの奴隷制

古代ギリシアの銀行家パシオンが奴隷から銀行家になった時のアテナイの通貨。

古代ギリシアの奴隷制(こだいギリシアのどれいせい、ギリシャ語:Αρχαίοι Έλληνες σκλάβοι、英語:Ancient Greek slaves)では、古代ギリシア奴隷制度について説明する。

概要編集

 
ブーランジェ 『奴隷市場』。ギリシアの奴隷売買を描いている。画中には、ネグロイド、ギリシア人などのさまざまな人種が描かれている

古代ギリシア世界では、戦いや祭祀の際に捧げる犠牲、農作業、雑用役などの労働に非常に盛んに使用され、多くはないが家内工業における職人もいた。ポリス市民の得た閑暇は公的生活への参加に向けられ。

古代ギリシアの奴隷は、個人の所有物であった者と、国有の物であった者、この2つに大別される。

前者の、個人の所有物であった奴隷制度はアテナイなどに存在し、市民が商品として購入したものだった。このタイプの奴隷は、家事のほとんどを主人に代わって行ったり、鉱山、農場で労働した。そのため、奴隷の間に連帯感はなく、市民を怠け者にさせた。

一方、後者の国有の奴隷はスパルタなどに存在した。彼らは、スパルタの場合ほとんどが先住民族イオニア人など)が征服された結果であり、その人口は約市民の8倍に及んだ。そのタイプの奴隷は、市民の農地で労働し、収穫物の約半分を差し出した。市民は、その作物で自身の腹を満たしたのであった。

沿革編集

背景編集

 
ギリシアの鉱山で労働する奴隷

自分の体を担保に金銭を借り、いわゆる「借財奴隷」となった元市民や、植民市を通じて売買された異民族、被征服民族である先住民族を奴隷身分に落としたこと等が原因で、古代ギリシアの奴隷制は始まった。奴隷は、古代ギリシアの貨幣経済が浸透した紀元前6世紀に増え、多くの市民が自身を担保に金銭を借り、遂には奴隷の身分に陥っていくようになった。

役割編集

  • 鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷、アテナイ、スパルタ、他)。
  • 軍の雑徭と先鋒を務めた(スパルタ、他)
  • 農業に奉仕し、支配層の圧政を受けた(スパルタ)。
  • 家事全般を行った(アテナイ、他)。

元来農耕に適さない土地であったため、大規模なプランテーションなどで労働したりすることはなかった。

アテナイ編集

 
アテナイの鉱山跡。このような環境で奴隷は労働した。
 
古代アテナイの遺跡

本節では、古代ギリシア都市国家アテナイ奴隷制について説明する。

概要編集

彼らは、後述するスパルタの「ヘイロタイ」とは異なり、個人の所有物であり、市民間で売買された。鉱山業などの生産労働に私的、公的に大規模に使役された(労働奴隷)。

アテナイの奴隷制の開始編集

アテナイの奴隷制は、自分の体を担保に金銭を借り、いわゆる「借財奴隷」となった元市民や、植民市を通じて売買された異民族などが原因で始まった。アテナイは、元来農耕に適さない土地であったため、大規模なプランテーションなどで労働したりすることはなかった。

古代ギリシアにおいては、奴隷の存在は特に疑問視されることはなく、人権などについての議論もなされなかったため、普遍的に存在するものだった。また、哲学者アリストテレスもその著作『政治学』において、ポリス市民が完全な人間であり、奴隷は支配されるように生まれついた不完全な人間である。そのため、一般の自由市民が奴隷を個人的に所有することは当然のこととしている。また、そのような奴隷を獲得する戦争は、狩りで獲物を捕らえるのと同じように自然な行為だ、とも言い、そこから、アテナイの人間が全く不自然にも哀れにも感じていなかったことがうかがえる。

奴隷制の発展編集

借財奴隷は、アテナイの貨幣経済が浸透した紀元前6世紀に増え、多くの市民が自身を担保に金銭を借り、遂には奴隷身分に陥るようになった。しかし、アテナイのポリス自体が腐敗していくことを見かねたソロンは、やがて「ソロンの改革」と呼ばれる改革を打ち出した。借財奴隷の解放、債務帳消しといった偉業を成し遂げたものの、その改革は不十分な形で終わりを迎えた。

また、イオニア人は他にも各植民市の近隣にいた異民族の村を支配する流れの中で、彼らを奴隷として捕らえ、アテネに商品として売り出した。アテネ市民はそのような奴隷を購入し、自身の「クレーロス」と呼ばれる農場で働かせたり、あるいは家事を手伝わせたりした。つまり、当時のアテネでは、奴隷を購入することは、召使いを雇うものと似たようなものであった(ただし、召使いと奴隷は異なっていた)。要するにアテナイでは、奴隷は個人の売買の対象となっており、市民が所有するものであった。

アテナイ内での身分編集

身分 人口 参政権 役割
市民 15万人 有り 労働の必要はなく、哲学や政治に時間を費やした
奴隷 17万人 無し 個人の所有物で、労働した。

アテネの奴隷の数については学者の見解が分かれているが、奴隷はその使役の目的によって召使い的な家内奴隷と生産のための奴隷とに大別される。ヘシオドスの詩や古典期のアテネの喜劇などから推せば、中以上の市民は二、三の家内奴隷をもっていた。彼らは重装歩兵の出陣に従者として武具、食糧をはこび、畑では農耕に従った。ただ、ギリシアでは、後のイタリアでのような大規模なラティフンディアは発展しなかった(そもそもそのような土地がなかった)。

工業に働く奴隷には、別居奴隷とよばれて収益の中の一定額を主人に貢納する、後の小作農と似た身分の奴隷と、主人が所有し奴隷頭が管理する、エルガステーリオンと呼ばれる何十人という奴隷とともに働く、いわば工場のようなもの、その二つが存在した。ラウレイオン銀山の採鉱も奴隷制の上に立脚し、一千人もの鉱山奴隷を奴隷主である富裕層が所有し、それを採掘者に貸した、ということが今日まで伝わっている。しかし、エルガステーリオンは例外的で、それは経営の永続性に乏しかったためであった。

呼称編集

  • ものをいう道具
  • ヘイロタイ

スパルタの奴隷制編集

 
スパルタでの戦いの様子。兵の前で雑徭をしているのがスパルタの奴隷である。

本節では、古代ギリシア都市国家スパルタの、ヘイロタイと呼ばれた身分の制度について説明する。

概要編集

ヘイロタイと呼ばれた彼らは、そのほとんどがスパルタ人による被征服民であった。彼らは。スパルタ人支配層に圧制を恣にされた。

 
スパルタの紋章
 
スパルタの軍

スパルタの奴隷制の開始編集

古代ギリシアで最強の軍備を誇った都市国家であるスパルタは、古代ギリシアの国家の中では珍しく、先住民族を征服し、支配下に置いた都市国家(征服王朝)であった。紀元前1500年前後の頃から、ペロポネソス半島のエウロタス河畔に居住していた民族・アカイア人テッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住したとされる古代ギリシアの民族で、後にその一部は「イオニア人」と呼ばれるようになった)は、後に奴隷となる先住民族であった。彼らは、紀元前1100年頃に北方から南下してきたスパルタ人たちに、無力なままに征服された。征服されたアカイア人は、全て奴隷身分に落とされた。彼らは、スパルタの支配層たちから「ヘイロタイ」と呼称された。また、紀元前8世紀頃第一次メッセニア戦争において隣国・メッセニアも征服され、彼らも、住民はみな奴隷の身分とされた。第二次メッセニア戦争でヘイロタイとなったメッセニア人は、スパルタ人口の半分から3分の2に達した。

スパルタの中での身分編集

身分 人口 参政権 兵役 役割
自由民・貴族・王族 約2万人 有り 有り 支配層で、成人男性にのみ参政権があった60歳まで兵役に専念した。
半自由民 約7万人 無し 有り 商業や手工業、農業を営み、自由民に奉仕する身分。
奴隷 約20万人 無し 雑徭 農業に奉仕し、支配層の圧政を受けた。

スパルタの奴隷は世帯を持つことが許されたが、その身分は国有奴隷であることに変わりはない。代々奴隷身分を引き継ぎ土地に縛られて農業に従事し、主人であるスパルタ人に収穫物の一部(約半分程)を貢納し、貴族たちの懐を満たした。

約2万人(市民とその家族)のスパルタ人に対し、約20万人のヘイロタイが存在したため、数的に奴隷たちに劣る支配者層・スパルタ人は常に奴隷たちによる反乱を恐れた。現に征服されたメッセニア人はアリストメネスという優れた指導者の下に紀元前7世紀第二次メッセニア戦争)に、さらに紀元前5世紀第三次メッセニア戦争)にスパルタを襲った地震に乗じて大規模な反乱を起こした。

その結果、スパルタは市民皆兵の軍国主義政策を採用し強力な軍隊を作り上げ、のちにその兵力を使って全ギリシアに覇を唱えた。その兵たちの訓練の中には、短剣一本のみを携えて放浪の旅に出るというものもあり、その際に奴隷たちが食料強奪の的にされ、襲われ、次々と死んでいった。しかし、スパルタの支配層からしてみれば、反乱を起こす恐れのある人々を都合よく殺せたのであった。

紀元前479年のプラタイアイへの出兵に際しては、スパルタ人1人に対して奴隷兵が7名が従卒ないし輜重兵として参加したという。奴隷兵は危険な分遣作戦に好んで使われ、ほとんどの者が躊躇なく見捨てられたという。

テーバイ編集

 
テーバイ
 
紀元前100年-奴隷の子供が付き添う女性(ギリシャ、紀元前100年頃)

概要編集

テーバイは、アイオリス系ギリシア人が建国したと考えられている。しかし、青銅器時代には北方のドーリア人の侵攻を受けたと考えられ、ドーリア人に征服された。彼等による征服の事実がこの都市をめぐる神話の背景になっていると考えられている。その際、先住民族であったアイオリス系のギリシア人は、被征服民となり、ドーリア人たちに従属するようになり、事実上の「奴隷」が発祥した、と考えられる。テーバイは、ボイオーティア地方の中心に位置し、また軍事的にも強力なテーバイ(ドーリア人の)は、自然にボイオーティアの盟主としての地位を確立した。

終焉編集

しかし、紀元前338年、北方のマケドニア軍と戦ったテーバイ軍は敗れた。紀元前335年、マケドニアに叛旗を翻したテーバイは大王アレクサンドロス3世によって破壊され、住民は殺害されるか奴隷として売り飛ばされるかの運命をたどった。テーバイの住民は、他民族を従属させていた身分から一転、他民族から従属させられることとなった。

マケドニア編集

古代マケドニア王国は、北方から南下したドーリス系ギリシア人により建国された。軍事に長けた国家・民族であったが、スパルタのような国有奴隷、圧政を受けた奴隷は存在しなかった、と考えられる。マケドニア王国は、都市国家を形成せず、一夫多妻制を取るなど、古代ギリシアの他の地域とは違う制度を有していたが、言語と宗教は古代ギリシアの諸ポリスと同一であった。

後に、マケドニア王アレクサンドロス3世は、アルベラ・ガウガメラの戦いペルシア軍を撃破し、ペルシア征服を実現させる。

その他のポリス編集

 
380-370 BC-盾とヘルメットをかぶった若い奴隷。

その他の古代ギリシアのポリスにおいても、アテナイ、スパルタ、テーバイのような奴隷は存在し、労働を強いた。各都市はいくつかの部族デモス(区: 胞族と最終的には氏族で順に構成された)から構成された。メトイコイ(在留外国人)と奴隷は、このような組織には入っていなかった。市民権は生まれにより通常決定された。各ポリスは崇拝する守護神、特有の祭儀及び習慣を持っていた[1]

消滅編集

古代ギリシアのポリスがローマ帝国に征服されてからも、奴隷制は存続し、今まで通り労働を強いられた。しかし、各ポリスとしての国有奴隷は消滅したし、次第にローマ帝国の奴隷制のほうが適される様になって行った。

ギリシャの場合と異なり、ローマ人は肉体労働そのものを卑しむ精神伝統はなかったが[2]、報酬として金銭を要求する職業を卑賎なものと見做す習慣があった。そのため古代ローマの奴隷制では、高い報酬を受け取るような職種であっても、奴隷が担う場合が多かった。

ローマの奴隷の中には、征服したギリシア人の奴隷も含まれた。教師や会計士、医師はローマでは多くの場合、奴隷が従事する職業であった。これら高度な知識が必要とされる業務は、多くの場合ギリシア人奴隷が充てられたのである。

備考編集

  • ほかにも様々な奴隷制が存在したが、ここでは雑多にしか記述しなかった。詳細は「ポリス」や、それぞれのポリスの記事を参照。

脚注編集

  1. ^ ギリシア人は、ポリスを領土の分類とは見なさず、宗教的政治的団体とも見なさなかった。ポリスはその都市自体を超えて領土と植民都市を統御していたのであるから、単なる地理的な領域から成立するものではない。
  2. ^ ローマ市民から構成される軍の兵士は常に街道の敷設や補修を行っていた。

関連項目編集

外部リンク編集