土屋 昌吉(つちや まさよし、天文14年〈1545年〉 - 元和9年2月16日1623年3月16日〉)は、 安土桃山時代から江戸時代前期の武士旗本。通称は三郎右衛門。父は土屋昌忠。妻は戸田忠兵衛の娘。子に土屋勝正、娘(岡部吉正の妻)、娘(高井貞重の妻)がいる。甲斐武田勝頼の遺臣。

生涯 編集

徳川家康に仕える前、土屋家は甲斐武田家の家臣であった。昌吉の祖父土屋昌清、父土屋昌忠武田信玄に仕えた。昌吉は、武田勝頼につかえたが、天正10年〈1582年〉、織田、徳川、北条の甲州征伐により、武田勝頼は敗北し、自害した。その年の6月、本能寺の変が起こり、甲斐国が草刈り場となる中、北条勢と徳川勢の戦いになる。昌吉は、徳川の家臣ではなかったが、黒駒に侵入する北条勢と戦った。戦功をあげるも、負傷する。家康の側近であり、同じくこの合戦に参戦した鳥居元忠が、昌吉の活躍について家康に言上し、徳川家に召し抱えられることとなった。旧領甲斐国成田の50貫文、井上の18貫文の知行を宛行われるべき旨の御朱印大久保忠隣から賜り、11月には本領安堵の御朱印を賜る。

天正12年〈1584年〉小牧長久手の戦い、天正18年〈1590年〉小田原征伐に従軍した。その後、甲斐国の知行地から武蔵国高麗郡多摩郡上総国長柄郡三郡に移され、410石余となる。天正19年〈1591年〉九戸一揆討伐のため陸奥国岩手県まで従軍。慶長5年〈1600年〉、御使番25人のうちに選ばれ、黄色地黒五文字の指物を賜る。元和9年(1623年)2月16日死去。享年79歳。知行地武蔵国高麗郡篠井村(現在の埼玉県狭山市笹井)宗源寺に葬られた。その後、宗源寺は、代々土屋家の葬地となった。なお、宗源寺の開基は、土屋昌吉、土屋治左衛門の2家と伝わる。[1]

脚注 編集

  1. ^ 狭山市内の仏閣「宗源寺(金井山)」”. 狭山市役所公式ホームページ. 2020年8月27日閲覧。

参考文献 編集