城戸武男(きど たけお、1899年 - 1980年)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。実弟の城戸久建築史家で「お城博士」として著名。

略歴 編集

三重県阿山郡上野町(現、伊賀市)において城戸操の長男として生まれる。

県立第三中学校(現、三重県立上野高等学校)を経て、名古屋高等工業学校建築科を1920年(大正9年)に卒業[1]。卒業後は竹中工務店に入社、1927年(昭和2年)に名古屋支店設計部主任。また、恩師である鈴木禎次の松坂屋本店(1924年)や名古屋公衆図書館(1924年)、森田病院(1927年)の設計を手伝う[2]

独立までに竹中で設計したものとして八重垣劇場(1930年)や名古屋株式取引所事務館(1931年)などが知られる[3]上野市駅(1922年)も城戸の設計とされていたが[4]、後に大阪の建設業者の設計と判明[5]

1927年には覚王山日泰寺鐘楼設計競技に応募し1等入選。1929年には名古屋市庁舎設計競技にも応募している[3]。日泰寺鐘楼設計競技の1等入選で、松坂屋の伊藤次郎左衛門に高く評価されたことを契機に、1933年(昭和8年)独立して城戸武男建築事務所を開設[6]

戦前の代表作品として、瀬戸電気鉄道小幡駅(1933年)、金城学院高等学校「榮光館」[7][8](基本設計は名古屋高等工業学校教授の佐藤鑑、1936年)、中北薬品京町支店(1936年)、八勝館大広間(1936年)、衆善館(1937年)などがある。このあたりの作品には、スパニッシュ風またはモダニズム的表現が取り入れられている[9]

事務所は戦時中、一時中断するが戦後再開。

戦後の作品としては、成田山名古屋別院大聖寺本堂(1950年)、料亭つたや(1954年、59年)、岡崎城天守閣(1958年)、芭蕉翁記念館(1959年)、彦根城佐和口多聞櫓(1960年)、椙山女学園大学校舎(1961年)伊賀信楽古陶館(1978年)などがある。伊賀上野城跡に立地する芭蕉翁記念館は、伊賀市に残る戦後モダニズム建築の事例として高評価がなされており、近年では記念館としての機能移転が計画されているが「外観はコンクリート打ち放しで、床面をやや上げてエントランス部分を吹き放しとしている。このため横長の平屋であっても軽快な印象を与えるデザインが特徴的である。またエントランス左右の壁面はロ字型のコンクリートブロック積みとして採光を確保するとともに、意匠的な目を引く」[6]

事務所が受託した仕事としては城郭や寺院など日本伝統建築の新築や復元の作品も多数ある[9]

出典 編集

  1. ^ 名古屋工業大学(2006)。同校教授鈴木禎次の直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している
  2. ^ 名古屋工業大学(2006)
  3. ^ a b 川本(1934)
  4. ^ 杉崎(2013)
  5. ^ <伊賀線開業100周年 夏の駅を歩く> (4)上野市駅:中日新聞2016年8月7日刊
  6. ^ a b 伊藤(1980)
  7. ^ ARCHITECT2018. 4
  8. ^ 全国登文会シンポジウム
  9. ^ a b 黒川(1980)

参考文献 編集

  • 名古屋工業大学(2006)『名古屋工業大学建築学科百年史』名古屋工業大学建築学科創立百周年記念会
  • 杉崎行恭(2013)駅旅のススメ
  • 川本兼一(1934)城戸武男作品集
  • 伊藤鉱一(1980)「城戸武男さんと私」『建築雑誌』 (1170), 1980年9月号、日本建築学会
  • 黒川巳喜(1980)「城戸武男先生の追悼」『建築雑誌』 (1170), 1980年9月号、日本建築学会