大貫房吉
大貫 房吉(おおぬき ふさきち、1840年9月10日(天保11年8月15日[1]) - 1912年(明治45年)[2])は、明治時代の日本の実業家、政治家。
経歴
編集大貫与左衛門の男として[1]、相模国高座郡大島村(神奈川県高座郡大沢村、相模原町を経て現相模原市緑区大島)に生まれる[3]。1888年(明治21年)分家し戸主となる[1]。1869年(明治2年)に横浜へ移り、1874年(明治7年)以降、大島屋を屋号に掲げ材木商を営む[4]。
横浜商業会議所、同区会、市会議員を務めたほか、土木常設議員として市政に関与した[3]。さらに横浜中央銀行[注 1]、横浜貯蓄銀行[注 2]取締役のほか、横浜衛生会社を立ち上げ社長を務めた[3]。
親族
編集- 二男 大貫栄太郎(横浜市会議員)[2]
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 森田忠吉『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』横浜商况新報社、1910年 。
- 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年。