天沼 青蒲(あまぬま せいほ、生没年不詳)は、明治時代から昭和時代初期にかけての女流日本画家

来歴

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鏑木清方の門人。本名は米子。同門の柿内青葉と同様、女子美術学校を卒業後、清方に入門した。明治44年(1911年)6月の第22回烏合会展に「客まつ門」、「よね子」を出品したほか、清方門下生による研究会や郷土会展覧会にも作品を出品している。雑誌『女学世界』の口絵なども手がけたという。大正4年(1915年)6月22日から25日に開催の第1回郷土会展に「常闇」を、大正5年(1916年)5月3日から7日に開催の第2回郷土会展に「御礼詣」を出品、大正7年(1918年)に、清方門下には女性が40人以上いるとして閨秀画家として雑誌に紹介された。大正14年(1925年)5月の第10回同展に「舞」を、昭和2年(1927年)5月の第12回同展に「縁日」を出品している。

父は天沼蘭洲(6代目十寸見蘭洲)といい、河東節をよくし、兄の俊一奈良県技師・京都大学教授を務め美術に精通した人物で、次兄の匏村(貴彦)はドイツ文学を専門とし第六高等学校教授をつとめたという[1]

出典

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  1. ^ 「清方門下の閨秀画家」。

参考文献

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  • 紫明生 「清方門下の閨秀画家」 『女学世界』18-3号 1918年
  • 鏑木清方記念美術館編 『鏑木清方の系譜 ‐師水野年方から清方の弟子たちへ‐』 鏑木清方記念美術館、2008年