姚 燧(よう すい、1239年 - 1314年)は、中国代初期の学者・官僚。端甫。号は牧庵営州柳城県の出身。

生涯 編集

3歳で父の姚格を失い蘇門にいた伯父の姚枢に引き取られた。1270年至元7年)、蒙古貴冑学校に入り、許衡に学んだ。後に秦王府の文学となり至元年間には提刑按察副使、1308年至大元年)には太子賓客となり、1309年(至大2年)には栄禄大夫を授かり、その後は翰林直学士・大司農丞や『世祖実録』編纂の総裁をつとめた。翰林学士承旨・知制誥・修国史を歴任し、1313年皇慶2年)に帰郷し、翌1314年(延祐元年)に没する。

著作 編集

  • 『国統離合表』
  • 『牧庵文集』36巻

姚燧の文章は「閎肆該洽、豪而不宕」つまり気力が横溢しつつも文体は引き締まり「西漢の風」があると評せられる。同時代の張養浩は「才気縦横であるところは古今随一」という。黄宗羲も姚燧の文章を論じ「明代の作家たちのよく及ぶところではない」と断定する。元曲の作詩にも手を染め、盧摯と並び称される。

寄征衣
欲寄君衣君不還 君が君の衣に寄らんとせば君は還らず
不寄君衣君又寒 君が君の衣に寄らざれど、また寒し
寄與不寄間 寄るも寄らざるも
妾身實萬難 妾が身は、実に万難にあり


参考文献 編集