肥後国生まれ。加藤啓明の二男。教部省の神沸試験に合格し、外国語学校へ入学。のちに慶應義塾に転ず。1885年(明治18年)宮内省華族局四等属に転じ「華族世襲財産法及び其施行手続」を草案する。翌年逓信省三等属となり、フランス、ボールベルの理科訓導を翻訳し、教科書に採用しようとするが案が通らず辞任。実用英学院を創立し百余名の生徒を得る。1902年(明治35年)児童新聞社を創立して「児童世界」を刊行。
この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 |