尾台 榕堂(おだい ようどう、寛政11年(1799年)-明治3年11月29日[1]1871年1月19日))は、江戸時代後期の漢方医。幼名四郎治、名は元逸、字は士超、榕堂、敲雲、通称は良作[2]

経歴・人物 編集

越後中条下町(現:新潟県十日町市 )の医家小杉家に生まれる[2][3]江戸に出てはじめ吉益東洞の高弟岑小翁に、のち尾台浅岳の門徒となり漢方を学ぶ[2]。故郷へ帰り開業するが、天保5年(1834年)に浅岳が他界すると江戸に戻り、尾台家の養子となった[2]。吉益東洞の類衆方を研究し『類衆方広義』を著した[1]。著書は他に『療難指示』、『方伎雑誌』、『閑窓筆録』、『医事啓源』など[2]
墓所は台東区谷中観音寺

脚注 編集

  1. ^ a b 上田正昭・ほか編(2001)『日本人名大辞典』講談社、p.438
  2. ^ a b c d e 赤羽篤 著『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、p.164(1989)
  3. ^ 尾台榕堂(おだいようどう) 1799~1870-中条地区振興会、2018年12月23日閲覧。