崇侯虎(すうこうこ)は、王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛に仕えた武将。封神演義に登場する殷の武将。

略歴

  1. 冀州蘇護が娘の妲己を帝辛に差し出すのを拒み、謀反の詩を残し帰国したため、西伯侯姫昌と共に討伐令が下された。しかし、姫昌は西岐に帰国してしまい崇侯虎だけの出陣となった。戦は蘇護の子の蘇全忠や冀州勢の陳季貞趙丙らの活躍により崇侯虎は大敗をし、間一髪逃げ延びた。そこに崇黒虎が現れ共にもう一度、冀州に出向き崇黒虎や西岐の散宜生らの説得により、蘇護は降伏し、冀州侯の乱は平定された。
  2. 帝辛の命令で鹿台建築を任され、呂尚が30年以上かかるといったものを僅か2年で造り上げた。
  3. 西岐の姫昌が呂尚を得て天下を正しめんと立ち上がり、崇応彪のまもる(崇侯虎は朝歌におり不在)崇城を攻めた。崇応彪は籠城戦にでる。最初の両軍衝突では、黄元済が西岐軍の南宮适に討たれ首を晒される。後日、総当たり攻撃をしたが、かえって梅徳が呂公望に、金成が辛免に討たれ、総崩れになって城に逃げ帰った。しばらくして、崇黒虎が救援に訪れ崇侯虎宛の書簡を腹心の孫栄に持たせ送りすぐさま崇侯虎は、崇城に戻った。しかし崇黒虎が裏切り、崇黒虎の配下の高定に崇侯虎と崇応彪は捕らえられ、妻娘もまた崇黒虎の腹心の沈岡に捕らえられた。崇城は落ち西岐軍の手で崇侯虎と崇応彪は共に処刑され、首を晒された(崇城の戦い)。
  4. 後に封神され大耗星となる。

参考