市川箱登羅 (初代)

日本の歌舞伎役者

初代 市川箱登羅(しょだい いちかわ はことら、1867年慶応3年) - 1944年(昭和19年)4月24日)は大阪の歌舞伎役者。

はじめ東京で活躍していたが、明治28年 (1895)、大阪の初代中村鴈治郎の門下に。その後は鴈治郎の大番頭として活躍、その死後は子の四代目中村翫雀(二代目鴈治郎)を支える。

あくの強い容貌と芸風で、端敵や道化役にいい味を出した。演劇評論家の山田庄一は「あの優は顔はもちろん美男ではなく、愛嬌があるというものでもなかった。それでいて、あの独特の軽さは、東京の名人松助(四代目尾上松助)と同様な評価を与えても、決して過ぎはしないだろう。・・・関西の、最近の名人と称しても過言ではあるまい。」と評している。(山田庄一『上方芸能今昔がたり』岩波書店 2013)

昭和19年(1944年)3月大阪歌舞伎座『松平長七郎』の庭番が最後の舞台となる。『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内、『伊賀越道中双六・岡崎』の蛇の目眼八、『心中天網島・河庄』の太兵衛、『椀久末松山』の柴田定之進などを当たり役とした。

彼の残した『市川箱登羅日記』は明治時代の役者の生活を語る貴重な資料となっている。

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