廬州(ろしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から初にかけて、現在の安徽省合肥市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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526年普通7年)、南朝梁により設置された南豫州を前身とする。547年太清元年)、合州と改称された[1]

隋代

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581年開皇元年)、が成立すると、合州は廬州と改称され、3郡3県を管轄した。582年開皇2年)に霍州の管轄県を統合された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、廬州は廬江郡と改称され、下部に7県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
廬州 霍州 廬江郡
汝陰郡 廬江郡 南梁郡 岳安郡 北沛郡 合肥県 襄安県
廬江県 慎県
霍山県 開化県
淠水県
汝陰県 廬江県 慎県 岳安県
開化県
新蔡県

唐代

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620年武徳3年)、により廬江郡は廬州と改められ、合肥・廬江・慎の3県を管轄した。624年(武徳7年)、巣州が廃止され、巣県を廬州の属県として併合した。742年天宝元年)、廬州は廬江郡と改称された。758年乾元元年)、廬江郡は廬州の称にもどされた。廬州は淮南道に属し、合肥・慎・・廬江・舒城の5県を管轄した[3]

宋代

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のとき、廬州は淮南西路に属し、合肥・・舒城の3県を管轄した[4]

元代

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1277年至元14年)、により廬州は廬州路総管府と改められた。廬州路は河南江北等処行中書省に属し、録事司と直属の合肥・梁・舒城の3県と和州に属する歴陽含山烏江の3県と無為州に属する無為・廬江・巣の3県と六安州に属する六安英山の2県、合わせて1司3州11県を管轄した[5]1364年朱元璋により廬州路は廬州府と改められた。

明代以降

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のとき、廬州府は南直隷に属し、直属の合肥・舒城・廬江の3県と無為州に属する巣県と六安州に属する英山・霍山の2県、合わせて2州6県を管轄した[6]

のとき、廬州府は安徽省に属し、合肥・舒城・廬江・巣の4県と無為州を管轄した[7]

1913年中華民国により廬州府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 梁書』武帝紀下
  2. ^ 隋書』地理志下
  3. ^ 旧唐書』地理志三
  4. ^ 宋史』地理志四
  5. ^ 元史』地理志二
  6. ^ 明史』地理志一
  7. ^ 清史稿』地理志六