張恭(ちょうきょう)

張恭 (十常侍)編集

張 恭(ちょう きょう、? - 189年?)は、中国後漢時代末期の宦官。

霊帝の時代、中常侍に任命され権勢を振るった12名の宦官(十常侍)の一人である。彼等はそれぞれが列侯され、親族も地方の官職を得て私腹を肥やしたという。184年黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は乱を鎮めるため十常侍を斬って天下に謝罪すべきと上奏したが、霊帝から拒絶された。

張恭については記録が乏しい。189年、袁紹等の掃討軍の攻撃で殺害された宦官達(張譲趙忠ら)の中に含まれているかどうかも不明である。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考資料編集

張恭 (魏)編集

張 恭(ちょう きょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将。魏に仕えた。子は張就。孫は張斅。曾孫は張固。従弟は張華。魏志に伝がある。

敦煌郡の功曹であった。当時の敦煌郡は、近隣の酒泉郡に黄華、張掖郡には張進という人物が割拠しており、それぞれから併呑しようと狙われていた。また、朝廷との連絡も満足につかない状況であった。

太守である馬艾が亡くなると、張恭は人徳の善さと学問に優れていたことから、長史の代行に推挙された。張恭は、子を朝廷の実権を握る曹操の元に派遣し、太守の派遣を要請した。子は酒泉郡で黄華に抑留され脅迫を受けたが、黄華に屈服することはなかった。これを聞いた張恭は、従弟に軍を率いさせ黄華を攻撃し、自身も兵を率いて黄華と張進の目を欺いた。さらに、精鋭の騎兵を送り正式な太守である尹奉を迎えることに成功した。黄華が後に金城太守である蘇則に降伏すると、子は無事に敦煌へ戻ることができた。

魏王朝が成立すると、張恭は関内侯となり、西域戊已校尉に任命された。後に中央に召し出されたが、病気のため辞退し、太和年間に死去した。執金吾を追贈された。

子は金城太守となり、父と同様に名声を高めた。また孫は、西晋)の広漢太守・匈奴中郎将となった。曾孫も晋の黄門郎となっている。