月刊おとなりさん
この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。 (2016年12月) |
『月刊おとなりさん』(げっかん おとなりさん)は、ハーツ&マインズが発行する月刊誌である。編集長は西村隆太(2020年現在)。発行部数は2万3000部。
月刊おとなりさん | |
---|---|
刊行頻度 | 月刊 |
発売国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
定価 | 無料 |
出版社 | 株式会社ハーツ&マインズ |
発行人 | 月刊「おとなりさん」編集部 |
編集長 | 西村隆太 |
刊行期間 | 1983年5月 - |
発行部数 | 23,000部() |
ウェブサイト | http://otonarisan.jp/ |
概要
編集1983年(昭和58年)5月創刊。東京都大田区・品川区の地域情報誌。「地域ジャーナリズムの旗手」、「サウス・オブ・トーキョーマガジン」と謳っている。[1]
沿革
編集1983年、当時コピーライターであった西村敏康は、馴染みだった平和島のすし店主から地域の衰退について相談を受けた。西村は対応策としてタウン誌発刊を提案、高齢となりコピーライター業に限界を感じていた西村自身がタウン誌を手がけることになった。誌名に地名を織り込むと地域的な広がりが出ないと考えた西村は、『おとなりさん』と名付けた[2]。
無料配布を実現するため、西村は地元43店から広告を取り、1983年5月に創刊号を発行した。創刊号は20ページの冊子で、1万部を印刷した。取り上げたのは京浜急行電鉄平和島駅が「学校裏」という駅名だったという話題であった。このように当初は平和島を扱っていたが、西村が誌名に託した通り、取材エリアは大田区から品川区へと広がっていった[3]。1988年10月には地域活性化イベントとして、「おとなりさん号」と名付けた人力車を大森駅から池上本門寺まで走らせている[4]。この時期はグルメや地域と関わりのある芸能人を扱うなど、やわらかな内容だった。「オーモリギャルVSカマタギャル」と題して、大森と蒲田周辺で撮影した若い女性の写真と電話番号が見開きで載っていたこともある[3]。
転機となったのは1996年、大田区役所移転問題を取り上げたことだった。大森地区から蒲田地区への区役所移転が決まるまでの間、『おとなりさん』は13号連続でこの問題を扱った。区長へのインタビューや、議員や団体代表者による誌上討論会が掲載され、反響の手紙は数百通に及んだ。以降は学校統廃合や再開発などの社会問題も取り上げるようになった[5]。2000年時点での発行部数は2万3千部となり、商店のほか区役所や警察署でも閲覧できるようになった[6]。その一方で2002年に大田区は区の刊行物に広告を載せるようになり、西村は民業圧迫だと区に陳情を提出した[7]。
- 1983年(昭和58年)5月、月刊「おとなりさん」創刊
- 1991年(平成3年)11月、「おとなりさん」100号記念「いらっしゃいませ」発刊
- 1999年(平成11年)11月、「おとなりさん」200号記念「大森にお城があった」発刊
- 2003年(平成15年)4月、月刊「おとなりさん」20周年記念「大田区ウォーキングガイド」発刊
- 2013年(平成25年)9月、フルカラー化
- 2016年(平成28年)12月、「おとなりさん」400号記念「縦横家列伝」発刊
- 2020年、西村隆太が代表取締役社長に就任。
- 2023年3月、40周年記念号を発刊し、入新井図書館で西村隆太が講演。
- その他著書多数。まち歩き講師。自費出版などを手掛ける。東京商工会議所大田支部評議員、大森法人会、大田三田会、品川区観光振興協議会ほか。
脚注
編集- ^ 表紙最上部に「地域ジャーナリズムの旗手」、「サウス・オブ・トーキョーマガジン」と記されている。
- ^ 「タウン誌「月刊おとなりさん」2月で200号」『朝日新聞』東京本社1999年12月9日朝刊35面東京面
- ^ a b 「足で記事書き、タウン誌23年 おとなりさん感覚で大田の街ダネ」『朝日新聞』東京本社2006年11月15日朝刊35面東京面
- ^ 「JR大森駅と池上本門寺間の2キロに懐かしの人力車」『読売新聞』東京本社1988年10月13日朝刊24面
- ^ 「大田・品川発、地域情報25年 月刊「おとなりさん」」『読売新聞』東京本社2008年4月3日朝刊31面
- ^ 「蒲田界隈 タウン誌「月刊おとなりさん」」『産経新聞』東京本社2000年8月1日夕刊6面
- ^ 「大田区刊行物の広告、掲載は「民業圧迫」 陳情を区議会採択」『朝日新聞』東京本社2002年10月22日朝刊31面東京面
外部リンク
編集「webおとなりさん」 http://otonarisan.jp/