朱光(しゅ こう、生没年不詳)は後漢後期から三国時代武将政治家曹操に仕え廬江太守として任じられるも孫権の軍に敗れて捕虜となった。

経歴 編集

曹操は廬江太守として朱光を派遣し、郡都の皖城周辺で屯田に従事しながら、鄱陽の賊に使いを送り内応させた[1]。孫権配下の呂蒙は土地の肥えた皖城が屯田によって発展して、敵の勢力が増すことを危惧し早急にこれを除くことを具申した[2]

建安19年(214年)、孫権は軍を発して皖城を攻撃し、呂蒙は諸将が土山を築き攻城のための道具を揃えての長期戦を提案する中、長期戦になると皖城の備えが整い敵の援軍が訪れるなどの不利を説き短期決戦を主張すると甘寧を城攻めの大将に推薦した。孫権がこれを認めると呂蒙は自らも前線に出て太鼓を叩いて兵を鼓舞して皖城を落とした。朱光と参軍の董和[3]をはじめ男女数万人が捕らえられた[4][5]。この時、張遼が援軍として夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した[6]

建安24年(219年)、曹操は関羽を討った孫権を驃騎将軍荊州南昌侯に封じ、この際に朱光は解放されている[7]

三国志演義 編集

三国志演義の朱光は第六十七回に登場し呉書同様、の廬江太守として登場するが、孫権に攻められ呂蒙の鼓舞で士気を増した呉軍との乱戦の中討死している[8]

参考文献 編集

  • 三国志』 呉書・呉主伝、呂蒙伝
  • 三国志演義』 第六十七回 曹操平定漢中地 張遼威震逍遙津

脚注 編集

  1. ^   三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 曹公遣朱光為廬江太守,屯皖,大開稻田,又令間人招誘鄱陽賊帥,使作內應。
  2. ^   三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 蒙曰:「皖田肥美,若一收孰,彼眾必增,如是數歲,操態見矣,宜早除之。」乃具陳其狀。
  3. ^ 劉璋麾下でのちに劉備に仕えた董和とは異なる。
  4. ^   三國志吳書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 十九年五月,權征皖城。閏月,克之。獲廬江太守朱光及參軍董和,男女數萬口。
  5. ^   三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 於是權親征皖,引見諸將,問以計策。〈《吳書》曰:諸將皆勸作土山,添攻具,蒙趨進曰:「治攻具及土山,必曆日乃成,城備既脩,外救必至,不可圖也。且乘雨水以入,若留經日,水必向盡,還道艱難,蒙竊危之。今觀此城,不能甚固,以三軍銳氣,四面並攻,不移時可拔,及水以歸,全勝之道也。」權從之。〉蒙乃薦甘寧為升城督,督攻在前,蒙以精銳繼之。侵晨進攻,蒙手執枹鼓,士卒皆騰踴自升,食時破之。
  6. ^   三國志吴書·周瑜、魯肅、吕蒙傳 (中国語), 三國志/卷54#呂蒙, ウィキソースより閲覧。  - 既而張遼至夾石,聞城已拔,乃退。
  7. ^   三國志吳書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 曹公表權爲驃騎將軍,假節領荊州牧,封南昌侯。權遣校尉梁寓奉貢於漢。及令王惇市馬,又遣朱光等歸。
  8. ^   三國演義 第六十七回 曹操平定漢中地 張遼威震逍遙津 (中国語), 三國演義/第067回, ウィキソースより閲覧。  - 不一日,呂蒙、甘寧先到。蒙獻策曰:「現今曹操令廬江太守朱光屯兵於皖城,大開稻田,納穀於合淝,以充軍實。今可先取皖城,然後攻合淝。」權曰:「此計甚合吾意。」遂教呂蒙、甘寧爲先鋒;蔣欽、潘璋爲合後;權自引周泰、陳武、董襲、徐盛爲中軍。時程普、黃蓋、韓當在各處鎮守,都未隨征。   卻說軍馬渡江,取和州,逕到皖城。皖城太守朱光,使人往合淝求救;一面固守城池,堅壁不出。權自到城下看時,城上箭如雨發,射中孫權麾蓋。權回寨,問眾將曰:「如何取得皖城?」董襲曰:「可差軍士築起土山攻之。」徐盛曰:「可豎雲梯,造虹橋,下觀城中而攻之。」呂蒙曰:「此法皆費日月而成,合淝救軍一至,不可圖矣。今我軍初到,士氣方銳,正可乘此銳氣,奮力攻擊。來日平明進兵,午未時便當破城。」   權從之。次日五更飯畢,三軍大進。城上矢石齊下。甘寧手執鐵練,冒矢石而上。朱光令弓拏手齊射,甘寧撥開箭林,一練打倒朱光。呂蒙親自擂鼓。士卒皆一擁而上,亂刀砍死朱光。餘眾多降,得了皖城,方纔辰時。張遼引軍至半路,哨馬回報皖城已失。遼即回兵歸合淝。