朱 冕(しゅ べん、生年不詳 - 1449年)は、明代軍人本貫沂州臨沂県

生涯 編集

朱栄の子として生まれた。1425年洪熙元年)10月、武進伯の爵位を嗣いだ。1427年宣徳2年)2月、行在左府事を管掌した。4月、晋王朱済熿が廃位されると、朱冕は山西に駐屯するよう命じられた。ほどなく召還された。右府に転じた。1428年(宣徳3年)10月、右参将として山海関に駐屯するよう命じられた[1]1429年(宣徳4年)6月、参将として開平府への食料輸送の護衛をつとめた[2]1431年(宣徳6年)、独石堡への食糧輸送を命じられ、そのままその地を巡察した。1436年正統元年)、通済河が決壊すると、朱冕は尚書の呉中とともに5万人を動員して、通済河の西に河道を掘り、白水を導き入れた[3]1439年(正統4年)、征西将軍の印を受け、大同に駐屯した。1449年(正統14年)7月、オイラトと陽和で戦い、敗死した。武進侯に追封された[4]は忠愨といった。

子女 編集

  • 朱琦
  • 朱瓚
  • 朱瑛(後嗣、武進伯、広西総兵官)
  • 朱璡
  • 朱瑋
  • 朱璘
  • 朱琛
  • 朱璁
  • 朱㻞[5]

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻20
  2. ^ 『国榷』巻21
  3. ^ 明史』河渠志四
  4. ^ 『明史』功臣世表二
  5. ^ 以上の九子は「武進伯朱公神道碑銘」(徐紘『明名臣琬琰録』巻17所収)による。

参考文献 編集

  • 『明史』巻155 列伝第43