李璨
経歴
編集李均(李霊の弟)と封勗(封懿の子)の娘のあいだの子として生まれた。成長すると身長は8尺5寸で、容貌は魁偉であった。学問を梁祚に受けた。興安年間、秘書中散・定州別駕となり、趙常山二郡太守に転じた。中書郎となり、風雅なことで高允に認められた。466年(天安元年)、南朝宋の徐州刺史の薛安都が彭城で北魏に降ると、博陵公尉元や城陽公孔伯恭らが軍を率いて対応することとなり、李璨は参賛二府軍事として従軍した。魏軍が九里山まで進むと、薛安都が部下を率いて出迎えたが、尉元が無礼な態度を取ったため、薛安都は彭城に帰って、連絡を絶ってしまった。南朝宋の将軍の張永・沈攸之らが軍を率いて下礚に駐屯したため、尉元は李璨と中書郎の高閭を彭城に派遣して薛安都を説得させ、魏軍はようやく入城することができた。その夜、張永は彭城の南門を攻撃して敗退した。李璨は張永の輜重の置かれた武原を攻撃するよう尉元に勧め、このため魏軍は張永の米船を攻撃して破った。折しもの大雪のため、張永は万を数える凍死者を出して撤退し、北魏は淮北を平定することができた。李璨は寧朔将軍の号を受け、畢衆敬とふたりで東兗州刺史となり、帰順者の定着につとめた。徐州での功績により、始豊侯の爵位を受け、建武将軍の号を加えられた。471年(延興元年)、死去した。享年は40。諡は懿といった。