李 術(り じゅつ、? - 建安6年(201年[1])は、中国後漢末期の人物。本貫豫州汝南郡

経歴 編集

孫策によって駆逐された劉勲の後任として、孫策により廬江太守に任命された。孫策の没後、孫権を侮り独立を宣言したため、孫権は怒り、曹操に李術の揚州刺史の厳象殺害を告発し、彼を助けないよう要請した。李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、先に孫権が李術の非を曹操に訴えていたため孤立し、糧食が尽きて落城ののち晒し首となった[2]

脚注 編集

  1. ^ 許嵩『建康実録』呉上 太祖上 s:zh:建康實錄/卷01#太祖上
  2. ^   三國志呉書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 建安四年の項後半に記載された江表伝の抜粋より。《江表傳》曰:初策表用李術爲廬江太守,策亡之後,術不肯事權,而多納其亡叛。權移書求索,術報曰:「有德見歸,無德見叛,不應復還。」權大怒,乃以狀白曹公曰:「嚴刺史昔爲公所用,又是州舉將,而李術兇惡,輕犯漢制,殘害州司,肆其無道,宜速誅滅,以懲醜類。今欲討之,進爲國朝掃除鯨鯢,退爲舉將報塞怨仇,此天下達義,夙夜所甘心。術必懼誅,復詭説求救。明公所居,阿衡之任,海內所瞻,原敕執事,勿復聽受。」是歳舉兵攻術於皖城。術閉門自守,求救於曹公。曹公不救。糧食乏盡,婦女或丸泥而吞之。遂屠其城,梟術首,徙其部曲三萬餘人。〉