桃ノ井 義衡(もものい よしひら、1157年 - 1240年)は、平安時代末期の平家一門の武将公卿貴族。現桃井氏(ももいし)の祖。

 
桃ノ井 義衡
時代 平安時代末期
生誕 保元2年(西暦1157年)
死没 仁治元年(西暦1240年)
別名 平 義衡
上総介 義衡
義衡入道
上総介 弾正 義衡 入道
戒名 西祐
墓所 西蓮寺
官位 位階従三位
官職左近衛少将上総介弾正台
主君 高倉天皇(後白河院)→安徳天皇(後白河院・高倉院)
氏族 桓武平氏維衡坂東平氏伊勢平氏
不明
西蓮(嫡子
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生涯

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仁安3年3月24日(西暦1168年)平清盛と共に剃髪し、義衡入道となる。
他の平家一門と並び、若くして叙位し、順調に昇進を重ね従三位左近衛少将上総介弾正台という重要な位階及び官職に叙任している。

寿永4年(西暦1185年)源平合戦に敗れ、聖人を訪ねて都に戻り、弟子入りを許される。

建永2年、承元元年(西暦1207年)聖人が承元の法難により、越後流罪となるが、その寸前に桃ノ井義衡は、聖人の言により、下総国香取郡川辺村の明寺へ移る。

仁治元年(西暦1240年)83歳で病死する。


子孫

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文明5年(西暦1473年) 桃ノ井義衡の子孫である西浄坊は蓮如上人に「西蓮寺」の寺号を許される。

西蓮寺は現在でも新潟県妙高市に現存しており、29世が住職に就いている。

参考文献

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  • 「先祖桃ノ井上総介義衡入道釈西祐由緒」参考