河野通政

戦国大名、河野氏第37代当主

河野 晴通/通政(こうの はるみち/みちまさ)は河野氏の当主。父は河野通存(みちまさ)、養父は河野通直。弟に石川通昌(いしかわ みちまさ)、河野通宣野島直信(のじま なおのぶ)がいる。「通政」は初名であり、のちに室町幕府将軍足利義晴より偏諱を受けて晴通と改名した。

 
河野通政 / 河野晴通
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 大永2年(1522年
死没 天文12年(1543年
改名 :通政→晴通
別名 六郎
戒名 法雲院殿天質宗性大禅定門
氏族 河野氏(予州河野氏→伊予河野氏)
父母 父:河野通存
養父(※実父とも): 河野通直
兄弟 通政?、石川通昌通宣野島直信
養子: 通宣 (実弟)
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生涯編集

河野通春の孫・通存の子で、河野氏の分家である予州河野氏の当主であった。しかし本家の当主であった河野通直が、娘婿で水軍の頭領として有能であった来島村上氏の村上通康に家督を譲ろうとしたことに反発し、通直と対立する。

この争いは来島騒動ともよばれる軍事抗争にも発展するが、通政は河野氏の家臣団の支持を集め、また豊後大友義鑑の仲介もあって、通直を隠居させ、河野氏本家の当主となった。「晴通」と改名したのもこの時であろう。しかし1543年、突如として急死した。嗣子が無かったため、跡を実弟の河野通宣が継いだ。

備考編集

近年の検証の成果として、弟とされる河野通宣共々、予州家の人間ではなく河野通直とは実の親子関係にあり、来島騒動も河野本家筋内部での家督争いであったとする説がある。また、最終的に通政の没後に通直が復権していることから、通直側の反撃によって討たれた可能性も指摘されている。

『臼杵稲葉家文書』所収の「河野家譜」では通政の正室を一条房家の娘としている[1]

脚注編集

  1. ^ 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、P43・128

関連項目編集