河間路(かかんろ)は、中国にかつて存在したモンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の河北省滄州市一帯に設置された。治所は河間府で、『東方見聞録』ではカチャンフ (Cacianfu) として名前が挙げられている。

モンゴル時代の華北投下領。河間路は右上に位置する。

チンギス・カンの庶子のコルゲンを始祖とするコルゲン・ウルスの投下領であった。

歴史 編集

唐代瀛州宋代河間府を前身とする。1236年、第2代皇帝オゴデイ河北の諸路を諸王・勲臣に分配した(丙申年分撥)が、この時河間府はチンギス・カンの庶子のコルゲンの投下領とされた[1]。この時の分撥では諸王が元来有する遊牧民の約10倍強の人口を有する地方が投下領として授けられており、4千の遊牧民を有するコルゲンの河間府の人口は45,930であった[2]

また、『元史』巻95食貨志3には河間路の中に、イェス=ブカ(4千戸)・カダアン=タイシ(千戸)・イェスウル(3千戸)・テレングト(千戸)から成る「左手九千戸」の投下領が含まれていたことが記録されている。この「左手九千戸」の投下領も1236年の丙申年分撥で設定されたものであるが、コルゲンへの分撥に内包されていたために『元史』巻2太宗本紀には記されていないと考えられている[3]

1287年(至元24年)にナヤンが叛乱を起こした際(ナヤン・カダアンの乱)、コルゲンの末裔であるエブゲンもこれに呼応したため、「エブゲンが管轄する河間のダルガチを罷免した」とする記録が残されている[4]。これにより、国初以来変わらず河間路がコルゲン王家の投下領であったことが確認される[5][6]

マルコ・ポーロによる記録 編集

クビライの治世に大元ウルスを訪れたとされるマルコ・ポーロは河間路についても『東方見聞録』の中で言及している。

カチャンフ(河間府)は南方に位置するりっぱな大都市で、カタイ地方に属している。住民は偶像教徒で火葬の風習をもっている。もっともキリスト教徒も若干はここに住んでおり、市内に一教会堂がある。カーンの治下に属し紙幣が行用されている。生糸の生産が多く、住民は商業·手工業に従事する。金欄織や琉瑠織の製造額がおびただしい。このカチャンフ市は多数の都邑を管轄下に持っている。城内を大河が貫流しているが、この河は多くの運河や水路によってはるばるカンバルック市にまで連絡されているから、多量の商品がこの河を通じてカンバルックに運輸されている。…… — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[7]

管轄州県 編集

河間路には録事司、23県(内6県が路の直轄)、6州が設置されていた。

6県 編集

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6州 編集

なお、斉東県と臨邑県は他の路・州を挟んだ飛び地となっているが、このような飛び地が存在するのはコルゲン家の投下領を前提として、後からそれを追認する形で行政区画が定められたためである[16]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年秋月]詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……果魯干、河間府」
  2. ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太祖第六子闊列堅太子子河間王位。歳賜、銀一百錠、段三百匹。五戸絲、丙申年、分撥河間路四万五千九百三十戸」
  3. ^ 松田2010,60-61頁
  4. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年秋七月]癸丑……罷乃顔所署益都・平灤、也不干河間分地達魯花赤、及勝納合児済南分地所署官」
  5. ^ 松田2010,55頁
  6. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「河間路、上。唐瀛州。宋河間府。元至元二年、置河間路総管府。戸七万九千二百六十六、口一十六万八千五百三十六。領司一、県六、州六。州領十七県」
  7. ^ 訳文は愛宕1971,3頁より引用
  8. ^ 『元史』巻95志44食貨3,「第二斡耳朶。歳賜、銀五十錠、段七十五匹、常課段一千四百九十匹。五戸絲、丁巳年、分撥河間青城県二千九百戸。延祐六年、実有一千五百五十六戸、計絲六百五十七斤。江南戸鈔、至元十八年、分撥贛州路一万五千戸、計鈔六百錠」
  9. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「録事司。県六。河間、中。倚郭。粛寧、下。至元二年、廃為鎮、入河間県、後復旧。斉東、下。憲宗三年、隷済南路。至元二年、還属河間路。寧津、下。憲宗二年、属済南路、至元二年、隷河間。臨邑、下。本属済南府、太宗七年、割属河間。憲宗三年、還属済南。至元二年、復属河間。青城。下。本青平鎮、太宗七年、析臨邑・寧津地置県、隷済南。中統置青城県、隷陵州。至元二年、隷河間」
  10. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「州六。滄州、中。唐改景城郡、復仍為滄州。金升臨海軍。元復為滄州。領五県:清池、中。楽陵、中。南皮、下。無棣、下。至元二年、併入楽陵県、以県治入済南之棣州、尋復置。塩山。下」
  11. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「景州、中。唐観州、又改景州。宋改永静軍。金仍改観州。元因之。至元二年、復為景州。領五県:蓨県、中。旧属観州、元初升元州、後復為蓨県。故城、中。元初隷河間路。至元二年、並為故城鎮、属景州。是年、復置県還来属。阜城、下。東光、下。呉橋、中」
  12. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「清州,下。五代置乾寧軍。宋為乾寧郡、大観間以河清、改清州。金為乾寧軍。元太宗二年、改清寧府。七年、又改清州。至元二年、以靖海・興済両県及本州司候司並為会川県、後復置清州。領三県:会川、中。靖海、下。興済、下」
  13. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「献州、下。本楽寿県、宋隷瀛州、又隷河間府。金改為寿州、又改献州。元至元二年、以州併入楽寿、直隷河間路、未幾復旧。領二県:楽寿、中。附郭。交河。中。至元二年、入楽寿、未幾如故」
  14. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「莫州、下。唐置鄚州、尋改為莫。旧領二県、至元二年、省入河間、未幾仍領二県:莫亭、下。倚郭。至元二年、与任丘倶省入河間県、後復置。任丘。下」
  15. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「陵州、下。本将陵県、宋・金皆隷景州。憲宗三年、割隷河間府。是年升陵州、隷済南路。至元二年、復為県。三年、復為州、仍隷河間路」
  16. ^ 杉山2004,216頁

参考文献 編集

  • 愛宕松男『東方見聞録 2』平凡社、1971年
  • 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
  • 松田孝一「オゴデイ・カンの『丙申年分撥』再考(2)」『立命館文学』第619号、2010年