洪憲(こうけん)は、中華帝国を樹立した袁世凱が使用した元号1916年1月1日から同年3月22日までと、使用された期間はわずか83日である。

概要 編集

辛亥革命後、中華民国の実権を握った袁世凱は皇帝即位を画策した。「皇帝即位計画」は「籌安会(ちゅうあんかい)」と呼ばれる諮問機関に諮られた。同会は「中国は民主制より君主制の方が良い」という米国フランク・ジョンソン・グッドノーFrank Johnson Goodnow)や日本有賀長雄などを政治顧問に迎えたものであった。この会は「全国請願連合会」を結成し、袁世凱の皇帝即位を後押しした。その結果、「万民の皇帝即位の請願は拒みがたく」、1915年12月12日、袁世凱は北京中南海にある懐仁堂中国語版で皇帝即位を宣言した。

袁世凱の皇帝即位に対する大反対運動は、直後から中国各地で勃発した。蔡鍔は革命軍を組織し、全国で反対運動を展開した(護国戦争)。その結果、1916年3月22日には袁世凱は皇帝退位を宣言、中国は民政に復帰した。この一連の事件を「第3革命」と呼ぶ。

西暦等との対照表 編集

洪憲 元年
西暦 1916年
干支 丙辰
日本 大正5

備考 編集

骨董品などで「洪憲年間」に作られた陶磁器などが、珍品として売られているときがある。短命元号ゆえのプレミアを見込んで作られた偽物である。また、北洋機器局(直隷省)、湖南省および新疆省において、「洪憲」の年号を刻した貨幣が発行された。これらは特に珍品ではないが、直隷省で作られたとされる穴銭式の「洪憲通宝」というものがあり、珍品とされているが、これは公式のものではなく、好事家目当てに製作された偽物と考えられている。

中華人民共和国では自らの任期制限撤廃に動く習近平党総書記国家主席を袁世凱に擬える動きがインターネットで起きた際にこれを否定的に捉えた当局によって「袁世凱」[1][2][3]とともに「洪憲」という言葉自体が中国のネット検閲で規制対象になっている[4][5]

関連項目 編集

出典 編集


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