滝事件(たきじけん)は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)によるスパイ事件[1][2]1959年昭和34年)7月31日摘発(検挙)[1][2][3][4]北朝鮮工作員が不法に日本に入国した事件である[4]密入国直後、工作員は列車内で逮捕された[1]

概要 編集

鈴木久夫こと趙昌国は戦前の1932年(昭和7年)、父親の友人をたよって16歳で朝鮮半島から日本に渡り、東京都内の学校を卒業したのち店員や工員として働いていたが、太平洋戦争終結直後、家族とともに北朝鮮に引き揚げた[1][3][4]。引き揚げ後は平壌直轄市近郊で工員として生活していた[3][4]。1959年6月頃、北朝鮮当局は彼を工作員として召喚し、短期間のスパイ教育をほどこした[1][3][4][注釈 1]

趙昌国(当時42歳)は1959年7月31日、石川県羽咋市の滝漁港から密入国し、北陸鉄道能登線滝駅から列車に乗り、同線の終点羽咋駅で国鉄七尾線に乗り換えたものと推定される[4]。趙昌国は金沢行きの列車に乗車していたところ、石川県警察の警官に職務質問され、密入国の疑いで逮捕された[1][4][注釈 2]。逮捕は金沢駅に到着したところで行われた[4]

趙に与えられた任務は、

  • 先行して潜入している工作員に乱数表・工作資金の手交
  • 大阪市内における連絡用のアジトの確保
  • 石川県下における密入国ポイントの調査

などであり、彼が携行していたのは、乱数表、工作資金、偽造された外国人登録証などであった[4]

趙昌国は、1959年11月9日金沢地方裁判所において、出入国管理令(出入国管理及び難民認定法)・外国為替法(外国為替及び外国貿易法)および関税法違反、公文書偽造懲役2年の判決を受けた[1][3][4]。趙は1961年(昭和36年)、帰還船で北朝鮮に戻った[1]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ この時期、北朝鮮が日本に対して送り込もうとした工作員の多くは、以前日本に住んだことがあり、日本語に熟達した人物であった[4]。渡日経験のある趙も日本語や日本での生活経験を見込まれたものと考えられる[4]。しかし、彼らの世代が高齢化して活動能力が低下した金正日の時代には「工作員の現地化」が図られ、工作員の日本人化教育が必要となり、その教育係を確保するために日本人拉致事件を引き起こすようになった可能性がある[4]
  2. ^ 寺越事件の被害者寺越昭二の三男(内田美津夫)によれば、密入国事件発覚は、男性が滅多に売れることのない大阪行きの切符を購入したため、それを不審に思った駅員による通報が原因だったという[1][4]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 高世(2002)p.304
  2. ^ a b 清水(2004)p.218
  3. ^ a b c d e 『戦後のスパイ事件』(1990)pp.54-55
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 特定失踪者問題調査会特別調査班 (2021年7月11日). “滝事件(日本における外事事件の歴史10)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会. 2022年2月26日閲覧。

参考文献 編集

  • 清水惇『北朝鮮情報機関の全貌―独裁政権を支える巨大組織の実態』光人社、2004年5月。ISBN 4-76-981196-9 
  • 高世仁『拉致 北朝鮮の国家犯罪』講談社〈講談社文庫〉、2002年9月(原著1999年)。ISBN 4-06-273552-0 
  • 諜報事件研究会『戦後のスパイ事件』東京法令出版、1990年1月。 

関連文献 編集

  • 外事事件研究会『戦後の外事事件―スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版、2007年10月。ISBN 978-4809011474 

外部リンク 編集