烏拉城の戦 (ウラ・ジョウのたたかい / ウラ・ホトンの-) または富爾哈城の戦[1] (フウジハ・ジョウの- / フルハ[2]・ジョウの-) はマンジュ・グルン (満洲国)ウラ・グルン (烏拉国) の間で1613年に勃発した戦役である。ヌルハチ率いるマンジュ軍がウラ討滅を図って進軍し、ウラ領内フルハ城での激突の末、北方にあるウラの居城、ウラ・ホトンを陥落させた。これによりウラ国主が逃亡し、ウラ・グルンは滅亡した。

ウラ・グルンの戦役
万暦35(1607):烏碣岩の戦
万暦36(1608):宜罕山の戦
万暦40(1612):烏拉河の戦
万暦41(1613):烏拉城の戦
そのほか関聯する戦役
天命07 (1622):「洪匡失国

伏線

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明朝万暦40 (1612) 年、烏拉河の戦で次々とウラ・グルン周辺の城砦を攻略、陥落させたヌルハチは、媾和を求めるウラ国主・ブジャンタイに向い、ブジャンタイ自らの子と臣下の子を人質としてマンジュに送るよう言い渡し、監視兵を残して撤兵した。

万暦41 (1613) 年2月[3]、ウラ・グルン上空に白い筋が起ち、ヘトゥアラ (ヌルハチ居城) を越えて南方のフラン・ハダ (嶺)[4]の方向へ消え去った為、ヌルハチはブジャンタイの闘争心が漸く摩滅したと考えた。(空に現れる白い筋は軍事の兆候とされた。)[5]しかし、ブジャンタイは間もなくまたも背盟する。

ブジャンタイは、娘・サハリヤン[6]、子・チョキナイ[7]と属部諸大臣17人の子を、マンジュにではなくイェヘに人質として送ってイェヘ前国主のブジャイ (故人) の娘への結納にしようと考え (同女にはヌルハチが既に結納を済ませていた)、[8]さらに妻二人、オンジェ[9](ヌルハチ姪) とムクシ[10](ヌルハチ娘) を幽閉しようとした。

この計画を耳にしたヌルハチは激怒し、愈々ウラ討滅を決意するに至った。ブジャンタイは人質の出発を2月7日[11]に予定していたが、結果的にマンジュ軍がその前日にウラ領に侵入した為、計画は頓挫し、イェヘからの援軍も得られぬままに戦闘に突入した。

経過

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万暦41 (1613) 年2月6日[12]ヌルハチは、ダイシャン[13]、アミン[14]グァルギャ氏フュンドンドンゴ氏ホホリ[15]トゥンギャ氏フルハンニョフル氏エイドゥ[16]ギョルチャ氏アンバ・フィヤング (ションコロイ・バトゥル)、シュムル氏ヤングリらと共に軍を率いてウラ領内に進攻するや、スンジャタの城[17]、ゴドの城[18]を立て続けに攻略し、更にオモの城[19]を攻略して同地に停泊した。

翌7日、ウラ国主のブジャンタイは兵3万を率い、ウラ・ホトン南方のフルハの城[2]に出て陣を取り、徒歩で行進を開始した。一方、ヌルハチはブジャンタイへの降伏勧告も視野に入れつつ慎重を期したが、マンジュ一行のブジャンタイへの怨嗟は限界に達し、ヌルハチに即時決戦の決意を促した。[20]

マンジュ軍も徒歩で戦闘に臨み、両軍互いに100歩のところまで迫ったところで、愈々火蓋が切られた。忽ち矢が一斉に雨のように降り注ぎ、鬨の声が天地を揺るがさんばかりに鳴り響いた。ヌルハチが率先して敵陣に突撃すると、諸王、諸大臣も続いて奮戦したが、ウラ軍兵の勢い凄まじく、ヌルハチは一旦後退を命じた。しかしヤングリは尚も攻撃を続け、一挙にフルハ城に迫った。[21][22]マンジュ軍の猛攻を受けて、迎撃したウラ軍の六、七割が戦死し、敗残兵は武器、甲冑を棄てて散り散りに逃げ惑った。

 
図:「太祖敗烏拉兵」(左中央:ヌルハチ)

敵軍が混乱する中でウラ・ホトンに迫ったアンフィヤングは、ブジャンタイの子・達拉漢が率いる守備兵に対して攻城戦に臨み、梯子をかけ城壁を登り、登り切ったところで一気に占拠してマンジュ軍旗を掲げた。[23][24]フルガンがそれに乗じてにウラ・ホトンの城門を抑えると、[25][22]各隊に続いて入城したヌルハチは、西門楼に腰を下ろし、城中にマンジュ軍旗を掲げるよう命じた。

 
図:「太祖乘勢取烏拉城」(左上:ヌルハチ、左下:ダイシャン、右下:ブジャンタイ)

ブジャンタイは100にも満たない敗残兵を連れてウラ・ホトンにかけつけたが、城中に掲げられたマンジュ軍旗に慄き、慌てて引き返した。そこへダイシャンが精鋭を連れて立ちはだかると、戦闘を諦めたブジャンタイは正面突破を図った。兵のほとんどが討ち死にし、更に多数が逃げ出し、ブジャンタイは命からがらイェヘに逃亡した。[26]

結果

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ウラ軍兵は30,000いた内の10,000ほどが討死した。

マンジュ軍は馬、甲冑、器械 (兵器) を鹵獲し、投降したウラ属領民は約1万戸という夥しい数に上った。投降民には眷属と引き会わせ、そのほかは俘虜として各軍に分配し、10日に亘る滞在の後に撤収した。これを以てウラ・グルンは滅亡した。尚、ブヤンの後裔およびマンタイ、ブジャンタイの子孫らは、その後多くがアイシン・グルン (後金国) のもとで官職を授けられている。

マンジュ軍はエイドゥ五子アダハイ、護衛の業中額イェジュンゲ、米拉渾ミラフンが、フルハ城から東に進攻するブジャンタイ軍との交戦中に戦死、その外、ドンゴ氏アランジュ[27][28]、納蘭察ナランチャが戦死、ワンヤン氏特音珠がその時の傷痍がもとで戦後に死亡している。[29][30]

ブジャンタイの子洪匡は後にウラの再興を企図し挙兵したが、失敗して自害した。[31]

脚注・参照元

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  1. ^ 扈伦研究. 未詳 
  2. ^ a b フルハの城:ᡶᡠᠯᡥᠠᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, fulhai hoton, 富爾哈城 (『滿洲實錄』)、富勒哈城 (『欽定盛京通志』)、伏爾哈城 (『清史稿』)。満語フルハ (fulha) には楊の意味がある。
  3. ^ 壬子年十二月
  4. ^ フラン・ハダ:ᡥᡡᠯᠠᠨ ᡥᠠᡩᠠ, hūlan hada, 呼蘭山 (『滿洲實錄』), 虎攔哈達山 (『清史稿』)。ハダ (hada) は嶺の意なので、『清史稿』の「虎攔哈達山」は本来「虎攔山」か「虎攔哈達」と書くべきところ。『滿洲實錄 (満文)』には「……(先祖の) 骸を昔の故里呼蘭哈達の赫圖阿拉の處より移して持ち來たらんと……」とあり、ヌルハチの生まれ故郷ヘトゥアラ (横岡の意) はフラン・ハダ (呼蘭哈達) に在ったとしている。
  5. ^ “白氣” (中国語). 重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部. https://dict.revised.moe.edu.tw/dictView.jsp?ID=13846&q=1&word=白氣. "白色的煙氣。古以為兵事的徵兆。" 
  6. ^ サハリヤン:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ, sahaliyan, 薩哈廉 (『清史稿』), 薩哈簾(『滿洲實錄』)。満語サハリヤン (sahaliyan) には黒色の意味がある。『欽定盛京通志』にはこの娘の記載なし。
  7. ^ チョキナイ:ᠴᠣᡴᡳᠨᠠᡳ, cokinai, 綽啓鼐。
  8. ^ “十二月”. 滿洲實錄. 3. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清實錄/滿洲實錄/卷三. "……布占泰欲將女薩哈簾男綽啓鼐及十七臣之子送葉赫為質娶太祖所聘之女又欲囚太祖二女……" 
  9. ^ ᠣᠨᠵᡝ, onje, 娥恩哲。ヌルハチ弟・シュルハチの娘。
  10. ^ ᠮᡠᡴᡠᠰᡳ, mukusi, 穆庫什。ヌルハチの娘。イハンアリン城の戦に敗れた後、ブジャンタイがヌルハチにせがんで貰った嫁。
  11. ^ 癸丑 (万暦四十一) 年正月丙子 (十八日)
  12. ^ 癸丑 (万暦四十一) 年正月乙亥 (十七日)
  13. ^ ダイシャン:ᡩᠠᡳᡧᠠᠨ, daišan, 代善 (古英巴圖魯とも)。ヌルハチの子。
  14. ^ ᠠᠮᡳᠨ, amin, 阿敏。ヌルハチの甥。
  15. ^ ホホリ:ᡥᠣᡥᠣᡵᡳ, hohori, 何和里 (『清史稿』、『滿洲實錄』)、何和哩 (『欽定盛京通志』)、ほかに何和禮とも。ドンゴ (Donggo, 棟鄂) 氏。
  16. ^ エイドゥ:ᡝᡳᡩᡠ, Eidu, 額亦都。ニオフル (鈕祜祿) 氏。
  17. ^ スンジャタの城:ᠰᡠᠨᠵᠠᡨᠠᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, sunjatai hoton, 孫扎泰 (『滿洲實錄 (漢文)』、『清史稿』)、遜扎塔 (『欽定盛京通志』)。『滿洲實錄』と『清史稿』は「孫扎泰 (sūnzhātài)」と表記しているが、『欽定盛京通志』は「遜扎塔 (xùnzhátǎ)」、『滿洲實錄 (満文)』は「sunjata gebungge(といふ名の) hoton(城)」としていて、後者二つに拠れば「sunjata」までが名称である。満語イ (i) は日本語の格助詞「の」に相当する。
  18. ^ ゴドの城:ᡤᠣᡩᠣᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, godoi hoton, 郭多城。
  19. ^ オモの城:ᠣᠮᠣᡳ ᡥᠣᡨᠣᠨ, omoi hoton, 鄂謨(『滿洲實錄』)、俄謨(『清史稿』)、鄂摩(『欽定盛京通志』)。満語オモ (omo) には池沼の意味がある。
  20. ^ “何和禮”. 清史稿. 225. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷225#何和禮. "……歲癸丑,從太祖再徵烏喇。太祖招諭布佔泰,猶冀其悛悔,何和禮與諸貝勒力請進攻,遂滅烏喇。……" 
  21. ^ “揚古利”. 清史稿. 226. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷226#揚古利. "……歲癸丑正月,再討烏喇,揚古利先眾進戰。攻清河,烏喇貝勒布占泰兵甚鋭,太祖傳矢命諸將退,揚古利持不可,麾眾迫城,聚一隅疾攻,遂拔之。……" 
  22. ^ a b 維基百科「烏拉城之戰」には「在富爾哈河與建州軍相持的布占泰聽聞都城有失,立刻回兵援救,此時,富爾哈城主之子阿海、阿爾胡蘇獻城投降建州,」(……この時、フルハ城主の子・阿海と阿爾胡蘇がマンジュ軍に城を明け渡した)、また「努爾哈赤率領大部隊隨後跟進,守軍不敵,達拉穆拔劍自刎」(達拉穆は剣を抜き自害した) とある。出典:『乌拉国简史』(趙東昇共著) p.80-81。
  23. ^ “安費揚古”. 清史稿. 225. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷225#安費揚古. "歲癸丑正月,從太祖滅烏喇,師薄城,安費揚古執纛先登。" 
  24. ^ “國朝人物十一”. 欽定盛京通志. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定盛京通志_(四庫全書本)/卷075. "安費揚古……辛亥年……從征烏拉擊達拉穆台吉兵摧其陣奮勇登城樹大纛于上大軍繼至遂滅烏拉……" 
  25. ^ “扈爾漢”. 清史稿. 225. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷225#扈爾漢. "……癸丑,太祖討烏喇,扈爾漢及諸將皆從戰,奪門入,遂滅烏喇。……" 
  26. ^ “禮烈親王代善”. 清史稿. 216. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷216#禮烈親王代善. "因麾兵進,與烏喇步兵相距百步許,代善從太祖臨陣奮擊,大破之,克其城。烏喇兵潰走,代善追殪過半。布占泰奔葉赫,所屬城邑盡降,編戶萬家。" 
  27. ^ “莫洛渾”. 清史稿. 226. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷226#孫_莫洛渾. "從伐烏喇,直前衝擊,人馬皆被創,下馬步戰,遂沒於陣。" 
  28. ^ “大臣傳37”. 欽定八旗通志. 171. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定八旗通志_(四庫全書本)/卷171#命以所獲輜重悉賚之. "……阿蘭珠旋擢理事大臣從征烏拉部直前衝擊中鎗且傷馬下馬歩戰弗稍郤遂歿於陣……" 
  29. ^ “忠義1”. 清史稿. 487. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷487. "癸丑年,烏拉貝勒布佔泰負恩叛,大兵討之,布佔泰率兵三萬由富哈城而東,特音珠、阿達海率護衛業中額等邀擊之。阿達海、業中額及閒散米拉渾均歿於陣,大兵敗布佔泰,遂平烏拉,特音珠尋以創發卒。徵烏拉之役,死事者有阿蘭珠、納蘭察,均自有傳。" 
  30. ^ 維基百科「烏拉城之戰」には「烏拉軍隊奮力抵抗,傷亡近萬,建州則損失七八千人,雙方戰將陣亡者達數百員之多」(ウラ軍死傷者10,000近く、マンジュ軍死傷者は7-8,000人、双方合せて数百の将校が戦死) とある。出典:『乌拉国简史』(趙東昇共著) p.81。
  31. ^ 乌拉国简史. 中共永吉県委史弁公室. p. 95 

参照文献・史料

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  • 編者不詳『滿文老檔』1775 (満洲語)
  • 阿桂(章佳氏)『欽定盛京通志』1778 (漢文)
  • 編者不詳『大清歷朝實錄(清實錄)』「滿洲實錄」、1781年 (満洲語、漢文、モンゴル語)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223「列傳10-布佔泰」清史館 、1928年 (漢文)
  • 李澍田『海西女真史料』吉林文史出版社 (1986)
  • 孫文良, 李治亭, 邱蓮梅『明清战争史略』遼寧人民出版社 、1986
  • 趙東昇, 宋占栄『乌拉国简史』中共永吉県委史弁公室 、1992
  • 閻崇年『努尔哈赤传·正说清朝第一帝』北京出版社 、2006