杜琦(と き)は、古代中国の後漢の人で、西暦111年に反乱を起こし、同年中に殺された。漢陽郡出身。安漢将軍と称した。

漢陽郡は漢の西辺でと接し、その侵攻に悩まされていた。永初5年(111年)の9月、杜琦は弟の杜季貢王信とともに羌と通じて反乱を起こした[1][2]。衆を集めて上邽県の県城に入り、安漢将軍を自称した[1][2]

安帝は、杜琦の首を得たものは列侯に封じ、銭百万を与えると詔を出した[2]。詔には羌胡が杜琦を斬れば、(列侯はなしで)金百斤、銀二百斤を与えるとあった[2]。12月、漢陽太守趙博が、もと役人の杜習を刺客として送り、杜琦を刺殺させた[1][2]。翌年に反乱軍は敗れ、王信は斬られて死に、杜季貢は羌に身を寄せた[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c d 『後漢書』巻5、安帝紀第5、永初5年。
  2. ^ a b c d e f 『後漢書』巻87、西羌伝第77、東号子麻奴。

参考文献

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    • 渡邉義浩訳、『後漢書』本紀一、二(早稲田文庫)、早稲田大学出版部、2022年、2023年。

外部リンク

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