「福山城 (備後国)」の版間の差分

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現在の天守(付櫓含む)、月見櫓、御湯殿は[[1966年]](昭和41年)に鉄筋コンクリート構造で復興されたものである。再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され、天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできる。三の丸南側は[[西日本旅客鉄道|JR]][[福山駅]]が東西に貫き、[[新幹線]]や[[福塩線]]のホームからは、天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。{{-}}
 
近年天守に鉄板が貼られたが予算の関係で空襲で消失した天守、月見櫓、御湯殿の木造復元計画はない。
 
== 歴史・沿革 ==
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[[明治維新]]後の[[廃藩置県]]により福山藩は[[福山県]]となり、それから数年の間に県名や県域の変更を繰り返した。
 
明治6年([[1873年]])の[[全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方|廃城令]]により廃城となり、ほとんどの施設は民間に払い下げられ、建物は建築資材として売却・解体され天守、伏見櫓、筋鉄門、御湯殿、鐘櫓、月見、などを残すのみとなり、本丸を除いた敷地のほとんどが売却され宅地や農地などに転用された。
 
堀の大部分は、官有の[[蓮根レンコン]]畑として利用されていたが経営難となり、内堀は明治24年([[1891年]])に民間に売却され、昭和初期までに福山駅の拡張などにより完全に埋められた。
 
外堀も随時売却され、明治24年([[1891年]])までに[[山陽鉄道]]の線路敷設のため南部の東西が埋められ、東南部は大正3年([[1914年]])に[[両備鉄道|両備軽便鉄道]]駅舎(両備福山駅)の建設により埋められた。
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昭和になると福山城の文化的価値が再評価され、昭和6年([[1931年]])に天守が、昭和8年([[1933年]])には伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿が国宝に、昭和11年([[1936年]])には本丸が史跡に指定された。二の丸の南側は[[大正]]4年([[1915年]])に所有者の植樹した桜が咲き乱れるようになり当地方随一の桜の名所として市民に親しまれた<ref name="jyoushi"/>。
 
しかし、[[太平洋戦争]]末期の[[昭和]]20年([[1945年]])8月8日、米軍の空襲([[福山大空襲]])により天守、御湯殿、月見など城下に残る多くの文化財と共に焼失した<ref group="注">伏見櫓と筋鉄御門、二の丸北側は罹災を免れた</ref>。
 
=== 戦後の復興 - 現在 ===