「ノート:徳宿村一家9人毒殺放火事件」の版間の差分

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→‎改名提案: 意味不明
→‎改名提案: 幸浦事件小島事件八海事件などの例について追記
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:::*JT女性社員逆恨み殺人事件についてはあくまで被害者女性が当時勤務していた当該企業の管理責任等もともすれば問われると申したかった「だけ」であって彼女が同事件の7年前に遭った事件の加害者である男に当初住んでいた団地まで犯人に直接告げてしまって特定されている状況下のなか囮捜査ともいえる操作の囮となって協力した結果男が逮捕されたことから一方的に逆恨みされる懸念と対策への時間が7年もあったにもかかわらず7年経ても引越しをしていなかった末に自ら告げ特定されていた団地の中を男にシラミ潰しに探され完全に住まいまで特定され殺害されたという事件であって、その事件内容にJTそのものは一切関わりがありませんとの断言はあまりにも難しくなぜ説得してでも引越しをさせなかったのかという世の声もあったゆえに当該企業の管理責任等にもと触れただけで被害者云々など御覧のようにただの一度も触れていない私のコメントを改竄し除去してまで「実在事件に関して被害者の名誉尊厳さえも傷つけるような事実と異なる発言をしたことは看過できません」云々虚偽のご発言をなさったのはどういう意図なのでしょうか?あと「闇サイト殺人事件」は「名古屋闇サイト殺人事件」として呼称する例は存じておりますがそれ以前に死亡者9人単独犯1人の本項件とのなんらかの例示に死亡者1人グループ犯3人の事件をと仰っても例示と仰るには[[WP:CRITERIA]]における似たような記事とは遠い印象です。例示した事件名の数々はいずれ名も多くの信頼できる情報源で一般的に用いられている名称であり、この提案もその慣例に沿ったものです。と仰いますが本項は発生当初の地名である『[[徳宿村]]』がすでに現存しないという異質で難解な事例であることから仰る慣例の範囲ではないとの認識であり、安易に改名すべきではないものと存じます。--[[利用者:Tarkoekoe|Tarkoekoe]]([[利用者‐会話:Tarkoekoe|会話]]) 2024年5月14日 (火) 16:55 (UTC)誤字を除去。--[[利用者:Tarkoekoe|Tarkoekoe]]([[利用者‐会話:Tarkoekoe|会話]]) 2024年5月14日 (火) 17:35 (UTC)
::::* 「実在事件に関して〜」云々はこちらの認識違いでした、失礼いたしました。しかし、それ以外のあなたの返答は正直おっしゃっていることの意味がわかりません。記事名は信頼できる情報源で一般的に使われている名称を使うのが望ましいとされているのだったら、発生当初の地名が現存しようがしまいがそれに従うのが筋ではないのでしょうか。例えば[[青森県新和村一家7人殺害事件]]は、事件後に当時の地名である[[新和村 (青森県)|新和村]]が弘前市と合併して消滅して以降も、新聞報道では発生当初の地名に従って「“新和”の七人殺し」などと報じられているわけですが<ref>『[[陸奥新報]]』1958年3月27日朝刊3頁「新和の七人殺し事件 Mに無罪の判決 交際秋田支部の控訴審 “心神喪失”を認む」「異常な反響を呼ぶ カギは“塩入鑑定書”」(陸奥新報社)</ref><ref>『[[東奥日報]]』1957年11月20日朝刊3頁「新和の七人殺し被吿 近く控訴審 注目される塩入鑑定書 心神喪失か耗弱か」(東奥日報社)</ref><ref>{{Cite book|和書|title=青森県警察史|publisher=[[青森県警察]]本部|date=1977-04-20|pages=966-969|ref={{SfnRef|青森県警察史|1977}}|editor=青森県警察史編纂委員会|NCID=BN06088371|chapter=第二編 戦後混乱期の警察 > 第四章 戦後混乱期の警察活動 > 第二節 主なる刑事事件 > 新和村の猟銃七人殺人事件|volume=下巻|doi=10.11501/9774196|id={{NDLJP|9774196/500}}・{{国立国会図書館書誌ID|000001582882}}・{{全国書誌番号|82090816}}}}</ref>。被害者数がどうこう、犯人数がどうこうなどは率直な話理解の範疇を超えています。--<span id="要塞騎士"><span id="&#123;&#123;User2&#124;要塞騎士&#125;&#125;">[[{{ns:2}}:要塞騎士]]<span class="plainlinks" style="font-size:smaller">([[{{ns:3}}:要塞騎士|{{int:talkpagelinktext}}]] / [[特別:投稿記録/要塞騎士|{{int:contribslink}}]] / [{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:要塞騎士}}}} {{int:sp-contributions-logs}}])</span></span></span> 2024年5月16日 (木) 14:15 (UTC)
::::** {{追記}} Tarkoekoe氏は「徳宿村一家9人毒殺放火事件」などへの改名に反対する理由として「徳宿村」が既に現存しない地名であることを挙げていますが、これは果たして妥当なものなのでしょうか。[[:Category:昭和時代戦後の殺人事件]]にざっと目を通してみたところ、例えば[[小島事件]]や[[幸浦事件]]が見当たりました。この両事件はともに[[静岡県]]で発生した法学者の間では著名な冤罪事件ですが、「[[小島村 (静岡県)|小島]]」「[[幸浦村|幸浦]]」という自治体名はいずれも現存しません。それぞれ現行自治体名は[[静岡市]][[清水区]]と[[袋井市]]です。[[八海事件]]に至っては事件発生時の市町村名ですらありません([[山口県]][[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]][[麻郷村]]八海=現在の[[田布施町]]八海で発生した事件)。またこの事件と同じ茨城県で発生した殺人事件の中にも[[波崎事件]]がありますが、同事件の舞台となった[[波崎町]]も現在は合併で[[神栖市]]の一部になっております。これらの事件はいずれも冤罪(および疑惑のある)事件としては有名でしょうが、事件史や法学などについて何の知識もない、かつ事件発生現場近くで生まれ育ったわけでもない人がこれらの名前を聞いたところで、その名前からいつどこで発生したどんな事件かなんてわからないでしょう。これらのような事件こそ、まさに「異質で難解な事例」そのものではないのでしょうか。しかしいずれも判例を扱った文献などで(それこそ日本語版ウィキペディアが設立される前、それどころかインターネットが発明されるよりずっと前から)それらの呼称が使われ続けており、故にウィキペディアでもそれらの情報源に従ってそういう命名がされているはずです。なお、この記事が作成された2019年1月の時点で閲覧されていたであろう[[大量殺人]]の当時の版([[特別:差分/70803612|参照]])に「戦後日本の大量殺人事件」というタイトルの一覧表がありますが、その表には既にこの記事への赤リンクが貼られていました。おそらく初版立項者はこの赤リンクを踏んで記事を作成したものと思われますが、当該版ではこの事件の記述(というより一覧表に収録されている事件のほとんど)に対し出典の紐づけは一切なされておらず、そもそも一覧表で用いられていた事件名自体が独自研究であったと言わざるを得ないでしょう。--<span id="要塞騎士"><span id="&#123;&#123;User2&#124;要塞騎士&#125;&#125;">[[{{ns:2}}:要塞騎士]]<span class="plainlinks" style="font-size:smaller">([[{{ns:3}}:要塞騎士|{{int:talkpagelinktext}}]] / [[特別:投稿記録/要塞騎士|{{int:contribslink}}]] / [{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:要塞騎士}}}} {{int:sp-contributions-logs}}])</span></span></span> 2024年5月21日 (火) 11:21 (UTC)
** {{追記}} 『読売新聞』『朝日新聞』でも、「一家九人毒殺事件」<ref>『朝日新聞』1954年11月7日東京朝刊第12版第一社会面7頁「【水戸発】茨城の一家九人毒殺事件 容疑者を全国指名手配」(朝日新聞東京本社)</ref>「一家九人殺し」<ref>『読売新聞』1954年10月13日東京朝刊第9版(茨城讀賣B版)8頁「一家九人殺し容疑者に二説 長男と白衣の男」「毒殺は10日夜8時 薬品関係の捜査に焦点」「火災直後水戸方面へ 白衣の男 同夕奥谷辻で降りる」(読売新聞東京本社・水戸支局)</ref><ref>『読売新聞』1954年10月14日東京朝刊7頁「【水戸発】茨城の一家九人殺し 父親からも青酸検出」(読売新聞東京本社)</ref>などの用例が確認できました。また本文中でも「鹿島郡徳宿村一家九人毒殺放火事件」<ref>『読売新聞』1954年11月8日東京朝刊第9版(茨城讀賣B版)8頁「九人殺し28日目に終止符 全村民ホッと安心 徳宿村 被害者の霊前に報告」(読売新聞東京本社・水戸支局)</ref>「徳宿村の一家九人毒殺放火事件」<ref>『朝日新聞』1954年11月8日東京朝刊茨城版8頁「自殺した毒殺放火容疑者 Yシャツから糸口 犯行手段は遂にナゾか」(朝日新聞東京本社・水戸支局)</ref>という呼称例が確認できます。--<span id="要塞騎士"><span id="&#123;&#123;User2&#124;要塞騎士&#125;&#125;">[[{{ns:2}}:要塞騎士]]<span class="plainlinks" style="font-size:smaller">([[{{ns:3}}:要塞騎士|{{int:talkpagelinktext}}]] / [[特別:投稿記録/要塞騎士|{{int:contribslink}}]] / [{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:要塞騎士}}}} {{int:sp-contributions-logs}}])</span></span></span> 2024年5月10日 (金) 09:33 (UTC)<small>追加。--<span id="要塞騎士"><span id="&#123;&#123;User2&#124;要塞騎士&#125;&#125;">[[{{ns:2}}:要塞騎士]]<span class="plainlinks" style="font-size:smaller">([[{{ns:3}}:要塞騎士|{{int:talkpagelinktext}}]] / [[特別:投稿記録/要塞騎士|{{int:contribslink}}]] / [{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:要塞騎士}}}} {{int:sp-contributions-logs}}])</span></span></span> 2024年5月10日 (金) 09:38 (UTC)</small>
** {{追記}} さらに『いはらき』(現在の『[[茨城新聞]]』)について調査しましたが、見出しで「一家九人毒殺放火事件」として言及した記事<ref>『いはらき』1954年10月13日第4版3頁「一家九人毒殺放火事件 凶行は白衣の男 搜査當局ほぼ斷定 犯行後水戶に現る 警察署前で悠々飮食」(茨城新聞社)</ref>、また本文中で「鉾田郡德宿村の一家九人毒殺放火事件」<ref>『いはらき』1954年10月14日第4版3頁「一家九人毒殺放火魔 常磐線上りで高飛び? “白衣の男”を必死で追及」「乘捨てた自轉車發見 現場から二里半 沼前村駒場地內で」「飯食べずに靑酸反應 巧妙極まる毒殺の手口」(茨城新聞社)</ref>「鹿島郡德宿村に發生した一家九人靑酸加里毒殺放火事件」<ref name="いはらき19541225"/>として言及した記事が確認できます。また国会図書館のデジタルコレクションで館外からも閲覧できる『[[朝日年鑑]]』『[[時事年鑑]]』なども調べましたが、前者は事件概略で「精米業」なる言葉が全く出てこず単に「一家9人」として言及しており<ref>{{Cite book|和書 |title=朝日年鑑 昭和31年版 |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1955-02-28 |page=464 |editor=朝日新聞社 |quote=10月11日 茨城県鹿島郡徳宿村,○○○○さん方から出火,その焼跡から一家9人の焼死体が発見され,死体解剖の結果,死因は青酸性毒物と断定され,犯人×××は逮捕されたが青酸カリで自殺 |id={{NDLJP|2994801/235}}}}</ref>、後者も「鹿島郡徳宿村の一家九人殺し放火事件」として言及しております<ref>{{Cite book|和書 |title=時事年鑑 昭和30年版(1955年版) |publisher=[[時事通信社]] |date=1955-10-01 |page=545 |editor=時事通信社 |quote=鹿島郡徳宿村の一家九人殺し放火事件(五四年十月十日) |id={{NDLJP|3032429/292}}}}</ref>。さらに『刑事警察論集』(警察庁刑事部調査統計課)でも「徳宿村一家毒殺放火事件」として言及がなされております<ref>{{Cite book|和書 |title=刑事警察論集 |publisher=[[東京法令出版]] |date=1956-10-10 |page=252 |editor=[[警察庁]]刑事部調査統計課 |quote=徳宿村一家毒殺放火事件 |id={{NDLJP|2978746/133}}}}</ref>。さらに茨城から遠く離れた高知県の『[[高知新聞]]』が発汗していた年鑑でも「茨城県徳宿村農業○○○○さん一家九人を毒殺、放火」という形でこの事件について言及がされてはおりますが、「精米業」という単語は一切出てきておりません<ref>{{Cite book|和書 |title=高知年鑑 昭和31年版(1956年) |publisher=[[高知新聞|高知新聞社]] |date=1950-09-15 |pages=75-76 |editor= |quote=毒殺して放火 二十九年十月一日〔注:十日の誤りと思われる〕未明茨城県徳宿村農業○○○○さん一家九人を毒殺、放火 |id={{NDLJP|2975696/47}}}}</ref>。--<span id="要塞騎士"><span id="&#123;&#123;User2&#124;要塞騎士&#125;&#125;">[[{{ns:2}}:要塞騎士]]<span class="plainlinks" style="font-size:smaller">([[{{ns:3}}:要塞騎士|{{int:talkpagelinktext}}]] / [[特別:投稿記録/要塞騎士|{{int:contribslink}}]] / [{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:要塞騎士}}}} {{int:sp-contributions-logs}}])</span></span></span> 2024年5月14日 (火) 14:13 (UTC)
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