「ニキータ・フルシチョフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
脱字補填
(他の1人の利用者による、間の5版が非表示)
1行目:
{{redirect|フルシチョフ}}
{{脚注の不足|date=2021-03}}
{{Expand English|Nikita Khrushchev|date=2021年3月|fa=yes}}
{{Infobox Officeholder
|name = ニキータ・フルシチョフ
80 ⟶ 78行目:
-ハリウッドでのフルシチョフの演説、ヴィクトル・スホトレフ訳<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=LnsD5ZjFWcw&t=198 Khrushchev in Hollywood (1959)], [[CBS News]] (3:50–6:09)</ref>}}
 
第一次世界大戦勃発後、フルシチョフは熟練の金属工であったため、徴兵を免除された。彼は、10つの鉱山の工房で勤務し、賃金と労働条件の改善や、戦争終結を求めるストライキに関わった{{sfn|Tompson|1995|pp=8–9}}。1914年には、鉱山の貨物操縦者の娘であるエフロシーニャ・ピサレワと結婚した。1915年には、娘のユリヤが生まれ、1917年には息子のレオニードが生まれた{{sfn|Taubman|2003|pp=38–40}}。
=== 共産党入党 ===
[[1917年]]の[[ロシア革命]]の以前から労働運動に参加したことが切っ掛けとなり、1918年にロシア共産党([[ボリシェヴィキ]])に入党した。[[ロシア内戦]]中の1919年には[[赤軍]]政治委員として参加した。1920年には[[セミョーン・ブジョーンヌイ]][[元帥]]の下で勤務し、反革命を標榜した[[白軍]]や[[ポーランド]]軍との戦闘に参加。1921年にユゾフカに戻る。
 
1917年、皇帝・[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]は退位し、[[ロシア臨時政府]]が成立したものの、ウクライナに対しては影響力はほとんど及ばなかった。フルシチョフはルッチェンコヴォにおける労働評議会(ソビエトのこと)に選出され、5月には議長となった{{sfn|Taubman|2003|p=47}}。フルシチョフが[[ボリシェヴィキ]]に参加したのは、1918年のことであり、この時、[[白軍]]と[[赤軍]]との間で、 [[ロシア内戦]]が勃発した。フルシチョフの伝記作家・[[ウィリアム・トーブマン]]によると、フルシチョフが赤軍に参加するのが遅かった理由としては、経済発展を優先する[[メンシェヴィキ]]に親近感を抱いており、一方で、ボリシェヴィキの方は政治的権力を求めていたためであろうとしている{{sfn|Taubman|2003|pp=47–48}}。フルシチョフの回想録では、フルシチョフは、多数の派閥との意思統一が難しく、座視していたとしている{{sfn|Taubman|2003|pp=47–48}}。
1925年7月、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後党活動に専従することとなる。[[ウクライナ]]でのフルシチョフは精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、[[ヨシフ・スターリン]]の側近であった[[ラーザリ・カガノーヴィチ|カガノーヴィチ]]に注目されることになる。[[1929年]]には{{仮リンク|スターリン記念工業アカデミー|ru|Всесоюзная промышленная академия}}に入学を許可されて[[冶金]]学を学ぶと共に、大学内でも党活動を熱心に推進して学内の共産党書記に選出される。
 
1918年3月、ボリシェヴィキは、[[中央同盟国]]と個別に和平を締結すると、ドイツ軍は[[ドンバス]]を占領し、フルシチョフは[[クルスク州|カリノフカ]]に、逃亡した。1918年の終わりごろか、1919年の初めに、フルシチョフは[[政治将校]]として赤軍に動員された{{sfn|Taubman|2003|pp=48–49}}。政治将校は、労働活動家よりもむしろ軍の新兵に依存するようになったため創設された。そして、政治将校の役目は、軍の士気の向上と臨戦態勢を整えることであった{{sfn|Taubman|2003|p=50}}。フルシチョフは、建設小隊の政治将校としてキャリアを歩み始め、建設大隊の政治将校に昇格し、2か月間の政治教育課程のために、前線から派遣された。フルシチョフは何度も銃火に晒されたが{{sfn|Tompson|1995|p=12}}、後年フルシチョフが語ることになる実戦の体験談は、実戦よりも、自身とその部隊の文化的ぎこちなさに重きを置いた体験談が中心となっていた{{sfn|Taubman|2003|p=50}}。1921年に内戦が終結し、フルシチョフは復員し、ドンバスの労働旅団に委員として赴任したものの、劣悪な環境で暮らすこととなった{{sfn|Taubman|2003|p=50}}。
=== 中央委員就任 ===
[[ファイル:Joseph Stalin and Nikita Khrushchev, 1936.jpg|thumb|200px|left|スターリンと共に]]
[[1931年]]にモスクワ党専従となり、[[モスクワ地下鉄]]の建設の功で[[レーニン勲章]]を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、[[1934年]]1月の第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌年の[[1935年]]3月にはモスクワ党第一書記となる。[[1938年]]4月に政治局員候補となり、スターリンに粛清された[[スタニスラフ・コシオール]]の後任として、[[ウクライナ共産党]]第一書記となった。[[1939年]]3月、第18回党大会で政治局員に昇格する。
 
内戦によって、荒廃し、飢餓も広がっていた。そして、フルシチョフの妻もフルシチョフが従軍中、[[チフス]]によって死亡した。フルシチョフは、葬儀のために一旦帰還したものの、ボリシェヴィキに忠実であったため、妻の遺体が納められた棺が地元の教会の棺に入るのを拒否した。墓地へと棺を運ぶため、フルシチョフは、棺を持ち上げ、墓地のフェンスを乗り越えたため、村に衝撃を与えた{{sfn|Taubman|2003|p=50}}。
この時期、党中央では[[大粛清]]の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフもスターリンを称える演説をし、さらにはウクライナにて大規模な粛清を実行した。1938年だけで10万人以上が逮捕され、大部分が処刑された。当時200人いた中央委員会の役員の中で生き残れたのは、わずか3人であった。
 
=== 党の幹部として ===
1921年、フルシチョフは、友人の伝手でドンバス地区のかつての職場でもあったルッチェンコヴォ鉱山の政治担当副所長に任命された{{sfn|Taubman|2003|p=52}}。当該地区はボリシェヴィキはほとんどいなかった。当時、ボリシェヴィキ運動は、[[ウラジーミル・レーニン]]の新経済政策によって分裂しており、一定程度の私営企業を認め、あるボリシェヴィキは、この方針はイデオロギーの後退であるとみなされていた{{sfn|Taubman|2003|p=52}}。フルシチョフの責務は政治であったが、一方で、内戦の混乱後に、鉱山においてフル生産の実現にも関与していた。フルシチョフは、機械の再稼働(機械の重要な部品や書類についてはソ連以前の所有者によって撤去されていた)を助力し、視察時は古い鉱山の服を着ていた{{sfn|Taubman|2003|pp=54–55}}。
 
フルシチョフは、ルッチェンコヴォ鉱山で立身出世し、1922年の中頃には、至近にあるパストゥホフ鉱山の管理職をオファーされた。しかし、フルシチョフはこのオファーを断り、上司の反対を押し切り、ユゾフカに新設された工科大学への配属を希望した。フルシチョフは、4年間しか教育を受けておらず、教育水準の低い学生のための教育プログラム、ラブファク(rabfak,Rabotchyi Fakultyet,英語では、労働者学部)に応募した{{sfn|Taubman|2003|p=55}}。工科大学へ入学する一方で、フルシチョフは鉱山での勤務を続けていた{{sfn|Tompson|1995|p=14}}。
 
フルシチョフを受け持ったある教師は、フルシチョフの成績は悪かったと評している{{sfn|Taubman|2003|p=55}}。フルシチョフは、[[ソビエト連邦共産党|共産党]]で出世していた。1922年8月にラブファクに入学した直後、フルシチョフは、大学全体の党書記に任命され、[[ドネツィク|ユゾフカ]]の党委員会の評議会のメンバーになった。彼は、一時的に[[レフ・トロツキー|トロツキー]]派に加わり、政党民主主義に関して、スターリン派と対立した{{sfn|Taubman|2003|pp=56–57}}。フルシチョフは政治活動に専心し、学業に時間をさけなくなり、フルシチョフ自身によると、ラブファクを修了したと主張しているが、真実のところは不明である{{sfn|Taubman|2003|pp=56–57}}。
 
[[ウィリアム・トーブマン]]によると、フルシチョフが教育を受けられたのは、ニーナ・ペトロヴナ・フルシチョフによるところが大きく、彼女は、教養の高い党の組織者であり、ウクライナの裕福な農民の娘であったためである{{sfn|Taubman|2003|pp=58–59}}。ただし、ニーナ自身の回想によると、家は貧しかったという。ニキータ・フルシチョフとニーナは、生涯連れ添ったが、事実婚を貫いていた。2人の間には3人の子供が生まれた。1929年に娘のラダが生まれ、1935年に息子の[[セルゲイ・フルシチョフ]]が生まれ、1937年に娘のエレナが生まれた。
 
1925年中頃、フルシチョフは、[[ドネツィク|スタリーノ]]近くのペトロヴォ・マリンスキー地区の党書記に任命された。ペトロヴォ・マリンスキー地区は、1000平方キロメートルの広さで、フルシチョフは、常に域内を動き回り、些細な出来事にも関心を持った{{sfn|Tompson|1995|pp=16–17}}。1925年末、フルシチョフは、モスクワで開催された第14回ソ連共産党党大会の無投票代表に選出された{{sfn|Taubman|2003|p=63}}。
 
=== カガノーヴィチの庇護下時代 ===
フルシチョフが、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]と初めて会ったのは1917年のことであった。1925年、カガーノヴィチは、ウクライナの共産党党首となり{{sfn|Taubman|2003|pp=64–66}}、フルシチョフは彼の庇護下におかれ{{sfn|Whitman|1971}}、すぐに昇進した。カガーノヴィチは、1926年末には、スターリンの党組織の副代表に任命された。9か月以内にカガーノヴィチの上司であった、コンスタンティン・モイセエンコが更迭され、ウィリアム・トーブマンは、フルシチョフの扇動が原因であるとしている{{sfn|Taubman|2003|pp=64–66}}。カガーノヴィチは、フルシチョフを当時ウクライナの首都であったハリコフへと異動させ、[[ウクライナ共産党]]の中央委員会の組織部門の部長に任命した{{sfn|Taubman|2003|p=66}}。1928年、フルシチョフは、[[キーウ|キエフ]]に異動となり、組織部門の部長<ref name="memofkhr">{{cite book |last1=Khrushchev |first1=Nikita Sergeevich |title=Memoirs of Nikita Khrushchev. Volume 1, Commissar, 1918–1945 |date=2005 |publisher=Pennsylvania State University |location=University Park, Pa. |isbn=0271058536 |page=28}}</ref>、党組織の副委員長を務めた{{sfn|Taubman|2003|p=68}}。
 
1929年、フルシチョフは、カガノーヴィチ(当時、スターリンの側近としてクレムリンにいた)に付き従い再び高等教育を受けようとし、モスクワに行き、{{仮リンク|全連邦工業専門学校|en|Industrial Academy (Moscow)}}に入学した。フルシチョフは同校の学業を修了しなかったものの、党内での地位は高まっていった{{sfn|Taubman|2003|p=73}}。同校の党組織は、来る地区党大会に、右派を多数選出すると、[[プラウダ|プラウダ紙]]によって攻撃された{{sfn|Tompson|1995|pp=31–32}}。フルシチョフは、その時、権力闘争に勝利し、同校の党書記となり、代議員を辞めさせた結果、右派を排斥することに成功した{{sfn|Tompson|1995|pp=31–32}}。フルシチョフは、急速に、党での地位を上げ、全連邦工業専門学校が所在するバウマン地区の党指導者となり、その後、モスクワでも最大かつ重要なクラスノプレスネンスキー地区でも党指導者となった。1932年までに、フルシチョフは、モスクワ市の党組織ではカガノーヴィチに次ぐ第2位の地位に就き、1934年には、モスクワ市の党組織指導者{{sfn|Taubman|2003|p=73}}と[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委員会]]の委員となった{{sfn|Taubman|2003|p=78}}。フルシチョフはこの急速な出世については、スターリンの妻である[[ナジェージダ・アリルーエワ]]と知り合ったことが大きいとしている。一方フルシチョフの回想録では、アリルーエワは、フルシチョフについて、スターリンに良いように話していたためとしている。フルシチョフの伝記作家ウィリアム・トンプソンは、フルシチョフはスターリンの庇護を受けるには、党におけるヒエラルキーが低く、この時点でフルシチョフのキャリアに良い影響があったとすれば、それはカガノーヴィチによるものであろうとしている{{sfn|Tompson|1995|pp=33–34}}
 
モスクワ市の党組織の指導者を務める一方で、フルシチョフはカガーノヴィチと共に[[モスクワ地下鉄]]建設の監督任務に当たった。地下鉄開業は1934年11月7日とアナウンスされていたため、地下鉄建設に当たってはかなりのリスクを冒して、トンネル内で過ごしていた。事故が発生しても、それは大義のための英雄談となった。地下鉄は、予定より遅れて1935年5月1日に開業したが、フルシチョフは地下鉄建設の功績によって[[レーニン勲章]]を授与された{{sfn|Taubman|2003|pp=94–95}}。その後、人口1100万人を誇る[[モスクワ州]]のモスクワ地域委員会の第一書記に選出された{{sfn|Taubman|2003|p=73}}。
 
=== 粛清への関与 ===
スターリンの執務記録では、フルシチョフが初めて会議に出席したのは1932年のことであった。両者は良好な関係を構築した。フルシチョフは、この独裁者(スターリン)を非常に尊敬し、非公式な会合の場を持ち、スターリンの[[ダーチャ|別荘]]へ招待され、一方でスターリンの方もこの若い部下に愛情を持っていた{{sfn|Taubman|2003|pp=105–06}}。1943年からスターリンは政敵の大粛清の取り掛かり、政敵を処刑や強制収容所送りにしていた。この粛清の中心となったのは、党や軍の指導者に対する見せしめである[[モスクワ裁判]]であった。1936年、フルシチョフは、このような粛清裁判に対して、強い支持を表明している
<blockquote>
わが国での成功は、偉大なる指導者スターリンによって導かれた我が党の勝利を喜ぶ誰もが、トロツキー派の犬どもに対して、ふさわしい言葉を見出すであろう。この言葉とは処刑である{{sfn|Taubman|2003|p=98}}。
</blockquote>
 
フルシチョフは[[モスクワ州]]において、多くの友人や同僚の粛清を支援した{{sfn|Taubman|2003|p=99}}。[[モスクワ市]]と州の党幹部38名のうち、35名が処刑され{{sfn|Taubman|2003|p=99}}、生き残った3人はソ連の他の州に移された{{sfn|Tompson|1995|p=57}}。モスクワ市外の都市や地区の党書記146名のうち、10名だけが粛清を生き延びた{{sfn|Taubman|2003|p=99}}。フルシチョフは回想録にて、自身と働いていた者はほとんど逮捕されたと述べている{{sfn|Taubman|2003|pp=99–100}}。党の規定により、フルシチョフはこれらの逮捕の承認が求められており、自身の友人や同僚を守るための行動はほとんど何もしなかった{{sfn|Taubman|2003|p=100}}。
 
党の指導者は、逮捕されるべき敵の人数が割り当てられていた{{sfn|Taubman|2003|p=100}}。1937年6月には、政治局はモスクワ州における逮捕目標人数を35,000人に設定した。その結果5000人が処刑されることになっていた。フルシチョフは、モスクワにおける2,000人の富裕農民や[[クラーク (農家)|クラーク]]をノルマ達成のために処刑されるよう求めていた。いずれにせよ、政治局の命令を受け、わずか2週間で、フルシチョフはスターリンに対して、41,305人の犯罪分子とクラーク分子が逮捕されたという報告を上げることができた。フルシチョフによると、これら逮捕者のうち8,500人が、処刑相当であるとしている{{sfn|Taubman|2003|p=100}}。
 
フルシチョフも、自身が粛清の対象外であると考えておらず、1937年には、1923年時点で[[トロツキズム]]に傾倒していたことをカガーノヴィチに打ち明け、カガーノヴィチは青ざめた様子で(カガーノヴィチが[[連座]]を恐れて保身のために)、スターリンに告白すべきだと助言した。スターリンは、フルシチョフのこの告白を受け止め、当初は黙っておくようフルシチョフに忠告したが、結局、モスクワの党大会で話すようフルシチョフに提案した。フルシチョフはその通りにした結果、賞賛され、再選された{{sfn|Taubman|2003|pp=103–04}}。フルシチョフは逮捕された同僚からも糾弾されたと回想録にて記している。スターリンはフルシチョフに直接その糾弾を個人的に告げ、フルシチョフの目を見て、反応を伺った。フルシチョフは、恐らくスターリンが自分の反応を疑っていたら、人民の敵とみなされていただろうとしている{{sfn|Taubman|2003|p=104}}。これらの出来事にもかかわらず、フルシチョフは、1938年1月14日、政治局の局員候補となり、1939年3月には、正規局員となった{{sfn|Tompson|1995|p=69}}。
 
1937年末、スターリンはフルシチョフをウクライナ共産党の党首に任命し、フルシチョフは1938年1月キエフに向かった{{sfn|Taubman|2003|pp=114–15}}。ウクライナでも大規模な粛清が行われており、かつてフルシチョフが敬愛していたスターリノの教授もその例外ではなかった。共産党の高級幹部とて例外ではなく、ウクライナの中央委員会は粛清によって定足数を満たすことができなかった。フルシチョフ着任後は、逮捕件数のペースは加速化した{{sfn|Taubman|2003|p=116}}。ウクライナ政治局組織局及び、書記局の局員は1名を除いて全員逮捕されていたくらいである。政府局員やソ連軍司令官は総入れ替えという状態になった{{sfn|Taubman|2003|p=118}}。フルシチョフ着任の数か月の間に、逮捕されたものはほとんど全員が死刑となった{{sfn|Tompson|1995|p=60}}。
 
ウィリアム・トーブマンによると、フルシチョフはキエフ時代、告発に失敗したため、告発の一部が真実でないこと、そして、無実の人々が苦しんでいたことを知っていたに違いないと指摘している{{sfn|Taubman|2003|p=118}}。1939年に、フルシチョフは、第14回ウクライナ党大会で、「同志諸君よ、我々は人民の敵を暴き出して、容赦なく破壊しなければならない。しかし、我々は、1人の誠実なるボリシェヴィキが傷つけられるのを許してはならない。我々は、中傷を行うものに対して、闘争を行なわなくてはならない」{{sfn|Taubman|2003|p=118}}。
 
=== 第二次世界大戦 ===
[[独ソ不可侵条約]]に基づいて、ソ連軍は1939年9月17日、[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻|ポーランド東部を侵攻し]]、フルシチョフは、スターリンの命令によって、軍に随伴した。多くのウクライナ人が侵攻地域に住んでおり、その多くが現在の{{仮リンク|西ウクライナ|en|Western Ukraine}}となる場所であった。多くの住民は、侵攻を歓迎したが、最終的には独立を望んでいた。フルシチョフの任務は、占領地域がソ連に併合されるよう投票に賛成票を投じさせることであった。[[プロパガンダ]]や、投票に関しての欺瞞などによって、新領土で成立された議会が、満場一致で、ソ連に統合されることを確実にした。そうして、新議会がソ連統合を請願した結果、西ウクライナは1939年11月1日に[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]](ウクライナSSR)の一部となった{{sfn|Taubman|2003|pp=135–37}}。西ウクライナの組織に東部ウクライナ人を配属したり、没収した土地を農民ではなく、集団農場に付与するなどして、ソ連による失策ともいえるこの行動は、まもなく西ウクライナ人との不和を生み出し、統合に向けたフルシチョフの努力を水泡に帰してしまった{{sfn|Tompson|1995|p=72}}。
[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]の[[バルバロッサ作戦|ナチス・ドイツによる侵攻]]以降ウクライナ共産党の責任者として[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]の産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の[[政治将校|政治委員]]の階級を授与され、南部戦線で[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]と戦った。
 
==== 独ソ戦 ====
[[スターリングラード攻防戦]]では、[[アンドレイ・エリョーメンコ]]大将の政治委員となり、[[1943年]]の[[クルスクの戦い]]では、[[ニコライ・ヴァトゥーチン]]中将の政治委員として直接前線に参加している。
1941年6月、[[独ソ戦]]が勃発し、フルシチョフは[[キーウ|キエフ]]にいた{{sfn|Taubman|2003|p=149}}。スターリンはフルシチョフを政治将校に任命し、フルシチョフは、モスクワと現地の軍司令官との仲介役を担っていた。スターリンは、フルシチョフが軍司令官の監視役としての役割を期待しており、一方軍司令官はフルシチョフには、スターリンへ影響を与える役割を期待していた{{sfn|Taubman|2003|p=150}}。
 
ドイツ軍が快進撃を続け、フルシチョフは、キエフ防衛のために軍と協力していた。スターリンはキエフを放棄してはならないという命令があり、ソ連赤軍はまもなくドイツ軍によって包囲された。ドイツ軍は655,000人の捕虜を獲ったが、ソ連側は、677,085人中、150,541人が包囲網を脱出したとしている{{sfn|Taubman|2003|p=163}}。この時点でのフルシチョフの関与は、一次資料では異なっている。1957年に、フルシチョフによって解任並びに失脚させられた[[ゲオルギー・ジューコフ]]元帥によると、フルシチョフは、キエフからの撤退禁止をスターリンに説得していたとしている{{sfn|Taubman|2003|pp=162–64}}。しかし、フルシチョフ自身の回想録では、[[セミョーン・チモシェンコ]] 元帥がモスクワから着任して、現在位置の保持命令を下すまでは、フルシチョフと[[セミョーン・ブジョーンヌイ]]元帥が、敵軍に包囲されるのを防ぐため、部隊の再配置を提案したとしている{{sfn|Khrushchev|2004|p=347}}。初期のフルシチョフの伝記作家マーク・フランクランドは、ソ連軍の崩壊により、フルシチョフの指導者への信頼が初めて揺らいだとしている{{sfn|Whitman|1971}}。フルシチョフは、回想録では、下記の通り述べている。
=== 第一書記兼首相 ===
[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンの死]]後共産党内ではポスト・スターリンの座を争うこととなった。党内ではフルシチョフ、マレンコフ、そしてNkVD元議長のベリヤら3人が注目されることになった。ただ、マレンコフは人気があまりなく、必然的にフルシチョフと[[マレンコフ]]は協力的になっていくこととなった。ただ、[[ベリヤ]]はスターリン死後の閣僚会議にてカガノーヴィッチ、モロトフからの支持を実質的に損失しており、更にマレンコフ・フルシチョフの人気が高まったことによってベリヤはその野望を諦めることになる。その後、ベリヤは粛清されマレンコフもその後すぐに権力をなくすこととなる。1953年9月、第一書記に就任した。[[1957年]]に[[ヴャチェスラフ・モロトフ|モロトフ]]、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求し、中央委員会幹部会の投票でいったんフルシチョフの第一書記からの解任が決まるが、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして辛くも第一書記の座に留まった([[反党グループ事件]])。「反党グループ」の3人は追放されたが、この時フルシチョフを積極的に支持しなかったブルガーニンは程無く首相を辞任させられ、フルシチョフが首相を兼任した。
 
<blockquote>
反党グループ事件のときにフルシチョフを積極的に支持した人物の中に、第二次世界大戦の英雄である[[ゲオルギー・ジューコフ]]国防相が居たが、ジューコフは広大なソ連各地から中央委員を集めるのに軍用機まで動員してフルシチョフに協力し、反党グループ追放後は中央委員会幹部会員(政治局員)として迎えられた。しかし軍縮をめぐってすぐにフルシチョフと対立した結果、大臣を解任されて中央委員会からも追放された。
さて、キエフ方面での敵軍突破、わが軍の包囲、ソ連赤軍第37軍の壊滅に話を戻すことにしよう。後ほど、第5軍も壊滅した。(中略)これらすべて無意味であり、軍事的観点から言えば、無知、無能、無学の極みであった。(中略)撤退しなかったために、この結果が招かれたのだ。我々は、撤退させなかったためにこれらの部隊を救うことができず、結果として、簡単に言えば全滅させてしまったのだ。(中略)このようなことが起きないようにできたはずなのだ{{sfn|Khrushchev|2004|pp=349–50}}。
</blockquote>
 
1942年、フルシチョフは[[南西戦線_(ソ連軍)|南西戦線]]におり、フルシチョフと同戦線の司令官である[[セミョーン・チモシェンコ]]は、[[ハルキウ|ハリコフ]]で大規模な反抗作戦を提案した。スターリンは、作戦の一部しか承認しなかったものの、64万人の兵力を[[ハリコフ攻防戦|反抗攻勢]]に参加した。しかし、ドイツ軍は、ソ連軍の攻勢を察知しており、罠を仕掛けていた。反転攻勢は、1942年5月に開始され、ソ連軍によるこの作戦は成功したかに見えたが、開始後5日以内に、ドイツ軍はソ連軍側面深くに攻め込み、ソ連赤軍は分断の危機に陥った。スターリンは、攻勢停止を禁止し、ソ連軍はドイツ軍に包囲された。ソ連側は267,000人の兵力を失い、そのうち200,000人が捕虜となり、スターリンはチモチェンコを降格させ、フルシチョフをモスクワに呼び寄せた。スターリンはフルシチョフの逮捕と処刑をほのめかしたが、[[スターリングラード]]に政治将校として帰任することを許可した{{sfn|Taubman|2003|pp=164–68}}。
=== 内政 ===
[[File:Nikita-Khrushchev-TIME-1958.jpg|thumb|upright=0.85|[[スプートニク・ショック]]で1957年の[[パーソン・オブ・ザ・イヤー]]に選ばれたフルシチョフ]]
1954年2月19日、[[ペラヤースラウ会議 (1654年)|ペレヤスラフ協定]]300周年を記念してソ連の領土内の管轄変更として[[クリミア半島]]を[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]から[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]に移管させた<ref name="yamakawa">{{Cite book|和書|editor=伊東孝之|others=井内敏夫、中井和夫 編|title=ポーランド・ウクライナ・バルト史|year=1998|publisher=山川出版社|isbn=978-4-634-41500-3|ncid=BA39089582|}}</ref>。ウクライナ融和策の一環やクリミア半島とウクライナ本土との経済的結びつきを重視して実現させたとされる。ただしこの措置は[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]後にロシアとウクライナの間でのクリミア半島(及び[[セヴァストポリ海軍基地]])の帰属をめぐる係争を産み、2014年には[[尊厳の革命|ウクライナでの政変]]のどさくさにまぎれて[[2014年クリミア危機|ロシアがクリミア半島を制圧]]し、[[ロシアによるクリミアの併合|併合を既成事実化する]]。
 
フルシチョフは、1942年8月、[[スターリングラード攻防戦]]開戦直後に、[[スターリングラード]]に着任した{{sfn|Taubman|2003|pp=168–71}}。スターリングラード攻防戦でフルシチョフが果たした役割は重要なものではない。スターリングラード防衛の指揮を執った[[ワシーリー・チュイコフ]]は、フルシチョフが首相になった際に出版した回想録では、フルシチョフについての言及は極僅かであるが、フルシチョフは終生スターリングラードで自身が果たした役割を誇りに思っていた{{sfn|Tompson|1995|p=81}}。フルシチョフは時折スターリンを訪ねるなどして、戦線を離脱することもあったが、スターリングラード戦では大部分において従軍しており、少なくとも一度死にかけたこともある。フルシチョフは反撃を提案したが、[[ゲオルギー・ジューコフ]]将軍らは、ソ連の守備位置から離脱し、ドイツ軍を包囲殲滅する[[ウラヌス作戦]]を計画していたことがわかり、当時この作戦は極秘であった。ウラヌス作戦が実行される前、フルシチョフは、部隊の臨戦態勢や士気を監視しており、ドイツ軍の捕虜やプロパガンダのための捕虜募集を行なっていた{{sfn|Taubman|2003|pp=168–71}}。
フルシチョフは[[1956年]]の[[ソ連共産党第20回大会|第20回党大会]]の秘密報告でいわゆる「[[スターリン批判]]」を行い、世界中に大きな衝撃をもたらした。これにより、フルシチョフは[[非スターリン化]]を行い、国内政治で一定の[[民主化]]の推進や[[軍縮]]を進めるとともに、軍事目的やソ連の宣伝も念頭に[[宇宙開発]]を推し進め、[[スプートニク計画|スプートニク]]や[[ボストーク]]の打ち上げに成功し、[[宇宙開発競争]]においてアメリカを引き離したのもフルシチョフ在任中のことである。また、工業・農業生産でもアメリカをソ連経済は超すと豪語していた。
 
スターリングラードでの戦いの終戦直後、フルシチョフは悲劇に見舞われる。戦闘機パイロットであった自身の息子・[[レオニード・フルシチョフ|レオニード]]が1943年3月11日、撃墜死してしまう。レオニードの戦死については、不明な点が多く{{sfn|Birch|2008}}、レオニードの僚機のパイロット達は、レオニードが撃墜されたことを目撃していないため、レオニードの戦闘機と遺体が見つかっていない。そのため、レオニードの最期については、諸説ある。ある説では、レオニードは、撃墜を生き延びて、ドイツ軍と協力し、後にソ連軍に捕虜になったものの、フルシチョフのとりなしもむなしく、スターリンによって銃殺命令が実行されたというもの{{sfn|Birch|2008}}。この説は、後にフルシチョフによる[[スターリン批判]]をした理由の説明となるものである{{sfn|Birch|2008}}{{sfn|Taubman|2003|pp=157–58}}。ソ連側のファイルにはこの説を裏付ける証拠はないが、歴史家によっては、レオニード・フルシチョフのファイルが戦後改ざんされたと主張する歴史家もいる{{sfn|Tompson|1995|p=82}}。しかし、後年、レオニードの僚機のパイロットは、レオニードの戦闘機が墜落するのを見たものの、報告しなかったと主張した。フルシチョフの伝記作家・ウィリアム・トーブマンは、これについて、政治局局員の息子の死亡に加担したと思われたくなかったからであろうと推測している{{sfn|Taubman|2003|p=158}}。1943年半ば、レオニードの妻・リューバ・フルシチョフがスパイ容疑で逮捕され、労働収容所で5年の刑が下され、レオニードの息子(リューバの連れ子)・トーリヤは孤児院におくられ、レオニードの娘・ユーリアはニキータ・フルシチョフ夫妻によって育てられた{{sfn|Taubman|2003|pp=158–62}}。
一方で集団指導体制を無視した独断的な重要政策の決定と農業政策の失敗によりアメリカや[[カナダ]]から[[穀物]]を輸入するようになったこと、海外訪問の際に家族を同行させたこと、[[娘婿]]であるアレクセイ・アジュベイを特使として[[西ドイツ]]に派遣したことなどが、一部から顰蹙を買った。また、フルシチョフは激情家で知られ、同志に対する叱責・暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされ、これが後に失脚に繋がる大きな原因となった。
 
ウラヌス作戦成功後、フルシチョフは、別の前線に移動した。フルシチョフは、1943年7月、東部戦線でドイツ軍にとって最後の大規模攻勢である[[クルスクの戦い]]に従軍し、ドイツ軍を撃退した{{sfn|Taubman|2003|pp=171–72}}。フルシチョフは、このクルスクの戦いでは、[[武装親衛隊|SS]]の投降者を尋問し、ドイツ軍の大規模攻勢があることを知ったが、伝記作家のトーブマンは、「間違いなく誇張であろう」としている{{sfn|Taubman|2003|pp=177–78}}。フルシチョフは、1943年11月に、キエフをソ連軍が占領した際に、ソ連軍に随行し、ドイツ軍が退却する中、破壊されたキエフの街へと入った{{sfn|Taubman|2003|pp=177–78}}。ソ連軍の攻勢が成功を収め、ナチスドイツは西方へと撤退し、フルシチョフは、ウクライナの復興事業に携わるようになった。フルシチョフは、[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]]の首相に任命されたが、これはウクライナの共産党と市民指導者の役職を1人で兼任した稀有な例である{{sfn|Tompson|1995|pp=81–82}}。
フルシチョフは[[無神論者]]で、「[[宗教]]は[[アヘン]]なり」とする共産主義の思想に忠実であった。[[第二次世界大戦]]中、士気高揚のため部分的に緩和された宗教弾圧が再び厳しさを増し、1960年から1962年の間に教会(特に[[ロシア正教会]]の[[聖堂]])の約3割を取り壊したと言われている。聖堂の数はその後[[ペレストロイカ]]時代に至るまで回復することは無かった。
 
ウィリアム・トンプソンによると、独ソ戦でフルシチョフが果たした役割については評価が難しいとしている。それは、フルシチョフは軍評議会としてしばしば活動し、単純に将校の命令を署名したのではなく、軍事的決定にどの程度影響を与えたのかを知ることはできないためである。しかし、トンプソンは、ブレジネフ政権時代に出版された軍部の回想録ではわずかながらもフルシチョフについて言及されており、これは、「どのような印刷物においても、フルシチョフに言及することはタブー」というブレジネフ政権時代を考慮すると、おおむね好ましい{{sfn|Tompson|1995|pp=81–82}}。これによりトンプソンは、フルシチョフは軍将校から高く評価されていたとしている{{sfn|Tompson|1995|pp=81–82}}。
フルシチョフは無学な労働者階級の出身という出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定については周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることが多々あった。
 
=== 権力掌握へ ===
[[トロフィム・ルイセンコ]]による反遺伝学キャンペーン([[ルイセンコ論争]])はスターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコ一派は巻き返しを図ってフルシチョフを取り込むことに成功する。フルシチョフは死ぬまでルイセンコの学説を信じ続け、遺伝子の存在を信じず、[[ピョートル・カピッツァ]](ノーベル物理学賞受賞者)、[[イーゴリ・クルチャトフ]](ソ連核開発の父)、息子の[[セルゲイ・フルシチョフ]](ミサイル開発技術者)、娘のラーダ(『ナウカ・イ・ジーズニ(科学と生活)』誌の副編集長)の説得にも耳を貸さなかった<ref>セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』([[草思社]]、1991年刊)。</ref>。結果としてソ連の農業生産高は大きく落ち込み、アメリカからの穀物輸入に依存する事態に陥った。
==== ウクライナへの帰還 ====
(第二次世界大戦中)ウクライナのほぼ全土はドイツ軍によって支配され、フルシチョフは、1943年終わり頃、自身の領地へと帰還した。ウクライナの産業は破壊され、農業は大不作に陥っていた。数百万人のウクライナ人がドイツの戦争捕虜として連行されていたにもかかわらず、残った者の住居は不足していた{{sfn|Tompson|1995|p=73}}。ウクライナ人は6人に1人が、戦争によって命を落としていた{{sfn|Tompson|1995|p=73}}。
 
フルシチョフは、ウクライナの復興をすべきだと考えたが、一方で、1930年代の大粛清が再発しないことを祈りつつ、中断中であったが、ウクライナをソ連体制に取り込んでしまおうとも考えていた{{sfn|Taubman|2003|p=180}}。ウクライナが軍事面で復興し、[[徴兵制度|徴兵制]]を制定し、19歳から50歳までの750,000人の男性が最低限の軍事訓練を受け、ソ連軍に入隊した{{sfn|Taubman|2003|p=181}}。その他のウクライナ人は、ウクライナ独立を求めて、[[パルチザン]]に加わった{{sfn|Taubman|2003|p=181}}。フルシチョフは、ウクライナを駆け回り、不足してしまった労働力に更なる努力を求めた。フルシチョフは、生まれ故郷のカリノフカを短期間訪れたものの、同地で飢えに苦しむ人や、ソ連軍に入隊したもののうち、わずか3人に1人しか帰還していないことに気づいた。フルシチョフは、故郷のために、できる限りの援助を行なった{{sfn|Taubman|2003|pp=193–95}}。フルシチョフの努力もむなしく、1945年には、ウクライナの工業水準は、戦前の4分の1の水準にとどまり、農業の収穫高はウクライナの領土奪回前の1944年と比べて、低下していた{{sfn|Tompson|1995|p=86}}。
芸術家たちとの関係も、政治的に上手く立ち回る芸術家たちに振り回され、有名なマネージ展覧会ホールの事件では、[[エルンスト・ネイズヴェスヌイ]]ら前衛芸術家を「西側イデオロギーに侵された逸脱者」として罵倒した上、その作品を「[[ロバの尻尾]]で描いたようだ」としてこき下ろした。
 
農産物の生産高を増やすために、[[コルホーズ]では、役に立たない住民を追放する権限を与えられた。コルホーズの指導者はこの権限を口実として、自身の敵や、病人、老人を追放し、ソ連の東部へと追いやった。フルシチョフは、この施策を、効果的であるとして、スターリンに他の場所での採用を進言した{{sfn|Tompson|1995|p=86}}。フルシチョフは、西ウクライナでの集団化を振興した。フルシチョフは、西ウクライナの集団化を1947年までに完了する予定であったが、パルチザンによる抵抗や資源不足もあり、集団化は遅々として進まなかった{{sfn|Tompson|1995|pp=87–88}}。パルチザンの多くは、[[ウクライナ蜂起軍]]として決起したものの、次第に旗色は悪くなり、ソ連の警察と軍は、1944年から1946年の間に、これらパルチザンを110,825人殺害し、25万人以上を捕縛したとしている{{sfn|Taubman|2003|p=195}}。60万人の西ウクライナ人が、1944年から1952年の間に逮捕され、3分の1が処刑、残りは収監ないし、東部へと追放された{{sfn|Taubman|2003|p=195}}。
一方、「反体制作家」の烙印を押され、当局からにらまれていた作家の[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]([[ノーベル文学賞]]受賞)を擁護したり、「ソ連水爆の父」と呼ばれた[[アンドレイ・サハロフ]]([[ノーベル平和賞]]受賞)の進言を聞き入れて核軍縮を行うなど、後世評価されるような業績も残した。
 
1944年から1945年にかけては、農作物は不作で、1946年には、ウクライナとロシア西部は、大干ばつに見舞われた。それにもかかわらず、集団農場と国営農場は、収穫高の52 %を政府に納めることが義務付けられていた{{sfn|Tompson|1995|p=91}}。ソ連政府は、東欧の同盟国へと供給するため、可能な限り多くの穀物をかき集めていた{{sfn|Taubman|2003|p=199}}。フルシチョフは、割当量を高く設定しており、スターリンは、ウクライナからは非現実的ともいえる量の穀物が納められることを期待していた{{sfn|Taubman|2003|pp=199–200}}。食料は配給制であったが、ソ連全土には非農業農村労働者には、食糧配給カードは与えられなかった。飢餓は農村の中でも僻地に限定され、ソ連国外ではほとんど注目されなかった{{sfn|Tompson|1995|p=91}}。フルシチョフは、1946年後半にこの絶望的な状況を知り、スターリンに絶えず援助を要請していたが、スターリンは激怒し、取り合わなかった。スターリンへの手紙は効果がなく、フルシチョフは、モスクワに行き、直談判した。スターリンは遂に折れて、ウクライナに対して、限定的ではあるが食糧援助と、無料の炊き出しの設置資金を承認した{{sfn|Taubman|2003|pp=200–201}}。しかし、フルシチョフの政治的地位は揺らぎ、1947年2月、スターリンはカガーノヴィチをウクライナに派遣して、フルシチョフを支援するよう提案した{{sfn|Tompson|1995|p=92}}。翌月、ウクライナ中央委員会は、フルシチョフの党首解任を決定し、後釜にはカガーノヴィチを首相とした{{sfn|Taubman|2003|p=203}}。
=== 外交 ===
[[ファイル:Dwight Eisenhower Nikita Khrushchev and their wives at state dinner 1959.png|right|200px|thumb|アメリカの[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領夫妻とフルシチョフ夫妻(1959年)]]
 
カガーノヴィチが、キエフに着任後まもなく、フルシチョフは病床に臥せってしまい、1947年9月まで、ほとんど姿を現さなかった。フルシチョフの回想録では、肺炎を患っていたとしている。伝記作家によっては、フルシチョフの病気は、政治的地位の失陥と終焉の恐怖が原因という政治的なものであったとしている{{sfn|Tompson|1995|p=93}}。しかし、フルシチョフの子供によると、重病であったためとしている。フルシチョフは、ベッドから起き上がられるようになると、フルシチョフ一家は、戦前以来の休暇を取得し、[[ラトビア]]のリゾートで過ごしていた{{sfn|Taubman|2003|p=203}}。フルシチョフは、アヒル狩りに精を出し、[[カリーニングラード]]を訪れ、工場と採石場の視察に出かけた{{sfn|Khrushchev|2000|p=27}}。1947年の年末までにはカガノーヴィチは、モスクワに呼び戻され、病気から快復したフルシチョフは、第一書記へと返り咲いた。フルシチョフはウクライナの首相職を辞任し、フルシチョフの子飼いであった{{仮リンク|デミヤン・コロトチェンコ|en|Demyan Korotchenko}}に首相の座を譲り渡した{{sfn|Tompson|1995|p=93}}。
====「雪融け」とキューバ危機====
フルシチョフは[[アメリカ合衆国]]や[[フランス]]などの資本主義諸国との平和共存外交を進め、1959年にはソ連の指導者として初めてアメリカに公式訪問し、アメリカの[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領との友好的な関係を築くことで、[[冷戦]]下の世界に一時的な「雪融け」([[:w:Khrushchev Thaw]]、[[雪どけ (小説)]] の記事も参照)をもたらした。
 
フルシチョフのウクライナでの最後の年は、概ね平和で、産業も回復途上であり{{sfn|Tompson|1995|p=95}}、ソ連軍はパルチザンを駆逐し、1947年と1948年の農作物の収穫高は、予想以上の豊作であった{{sfn|Taubman|2003|p=205}}。西ウクライナでの農業の集団化は進み、フルシチョフは、農業の集団化の奨励と、私有農場の抑制の政策を推進した。これらは時には、裏目に出ることもあり、家畜の私有に対する課税によって、農民による家畜殺害を引き起こしたこともあった{{sfn|Tompson|1995|p=96}}。街と田舎の差を無くすべく、農村プロレタリアートに変えるという試みの元、フルシチョフは、農業都市という構想を描いた{{sfn|Tompson|1995|pp=96–97}}。農業労働者は、農場近くの村に住むのではなく、村にはない、公共施設や図書館などのような行政サービスが受けられる大きな街に住むのである。フルシチョフは、1949年12月モスクワに戻る前に、そのような構想の町を1つ完成させた。そして、その街をスターリン70歳の誕生日プレゼントして贈った{{sfn|Tompson|1995|pp=96–97}}。
その一方で、1959年の[[キューバ革命]]後に同国の政権を握った[[フィデル・カストロ]]との関係を深め、1962年に起きた[[キューバ危機]]ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになるが、寸前で譲歩し戦争を回避した。1960年に起きた「[[U-2撃墜事件]]」ではアメリカと激しく対立、翌1961年に行われた[[ウィーン会談]]では、アイゼンハワー大統領の後を継いで第35代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任した[[ジョン・F・ケネディ]]大統領と会談を行ったものの、[[ベルリン]]の処遇について対立し、その後の「[[ベルリンの壁]]」の構築につながった。
 
フルシチョフは回想録にて、10年以上に及ぶウクライナを次のように誉めそやした
====社会主義国との関係====
スターリン時代のソ連と対立していた[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]との関係を正常化させるも[[ハンガリー動乱]]に軍事介入し、スターリン批判および[[デタント]]は東ヨーロッパ諸国の自由化や同盟離脱の容認を意味するものでは無いことを示した。[[毛沢東]]率いる[[中華人民共和国]]にはソ連の指導者では初めて訪問して、[[原子爆弾]]の開発で協力するも、[[毛沢東]]はフルシチョフの脱スターリン路線を「[[修正主義]]」であると批判して[[中ソ対立]]が始まり、同様に[[教条主義]]的な[[エンヴェル・ホッジャ]]率いる[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア]]とも1961年に断交して軍事衝突寸前まで行くこととなる<ref group="注釈">ソ連とアルバニアの緊張が高まった当時、ソ連からアルバニアに譲り渡す予定だった12隻の潜水艦がアルバニアに到着し、ソ連人乗員によるアルバニア人乗員の訓練中であった。ソ連側は潜水艦12隻全てを引き揚げようと試みたが、アルバニア側は拒み、ソ連が軍艦を出動させる事態となった。結局、アルバニア人乗員しか乗っていなかった3隻から4隻の引き渡しをアルバニア側が拒み、8隻から9隻のみがソ連に戻された。</ref>。[[金日成]]率いる[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]には[[8月宗派事件]]で中国とともに内政干渉を行って対立したことはあったものの、北朝鮮との[[軍事同盟]]を拒んだスターリン時代と一線を画して[[ソ朝友好協力相互援助条約]]を締結した。
 
<blockquote>
[[第二次中東戦争]]では、フルシチョフは[[第一次中東戦争]]で[[衛星国]]の[[チェコスロバキア]]を通じて[[イスラエル]]に武器を支援({{仮リンク|イスラエル=チェコスロバキア武器取引|en|Arms shipments from Czechoslovakia to Israel 1947–49}})していたスターリンと一線を画し、[[アラブ社会主義]]を掲げる[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]を支持してチェコスロバキアを通じて[[エジプト]]に軍事援助({{仮リンク|エジプト=チェコスロバキア武器取引|en|Egyptian–Czechoslovak arms deal}})を行った<ref>Gaddis, John Lewis (1998) p. 171.</ref>。[[アスワン・ハイ・ダム]]の建設にも協力した。これは[[アラブ諸国]]にソ連の影響力をもたらした一方で、{{仮リンク|アラブ冷戦|en|Arab Cold War}}の構造もつくりだした。
ウクライナ人民は、私にとても良くしてくれた。私は、このウクライナで過ごした年月を忘れないだろう。多大な責任を負っていた日々であったが、しかし、満足感があり、楽しかった。しかし、私はここで果たした役割が重要であるというつもりはない。ウクライナ国民全員が、多大なる努力を払っていたのだ。私は、ウクライナの成功は、ウクライナ国民によるところが大きいと考えている。私は、これについて、詳細は述べないが、原理的にはとても簡単なことだ。私自身はロシア人であり、ロシア人を敵に回したくない{{sfn|Khrushchev|2006|pp=16–17}}
</blockquote>
 
====日本と スターリン関係最晩年期 ====
1949年12月中旬より、フルシチョフは再び、モスクワ市とモスクワ州の党書記になった。ウィリアム・トーブマンによると、スターリンは、スターリンの後継者と目されていた[[ゲオルギー・マレンコフ]]と[[ラヴレンチー・ベリヤ]]の影響力のバランスをとるためであったとしている{{sfn|Taubman|2003|p=210}}。高齢となったスターリンは政治局会議を招集することはなかった。その代わりに、政府高官の職務の多くは、スターリン主催の夕食会で行われ、その夕食会には、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、カガーノヴィチ、[[クリメント・ヴォロシーロフ]]、[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]、[[ニコライ・ブルガーニン]]らがいた。フルシチョフは、スターリンの御前で、居眠りをしないように、早めに昼寝をしていた。フルシチョフは回想録にて、「スターリンのいる前で居眠りをした者は、ひどい目に遭っていた。」と記している{{sfn|Khrushchev|2006|p=43}}。
[[日本]]との関係については、日ソ交渉を行った時の最高指導者である(詳細は[[日ソ共同宣言]]にあり)。フルシチョフは晩年に記した回想記の中で、平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的・経済的にあまり価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係の方が極めて大きいと考えており、戦後の日本の経済成長を羨んで「ソ連が[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ[[北方領土問題]]で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。フルシチョフは「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリン個人のプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘している。この件は結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]政権での[[グラスノスチ]]によって1989年になって初めてその内容が公開された<ref>ニキータ・フルシチョフ『封印されていた証言』([[草思社]]、1991年)。</ref>。
 
1950年、フルシチョフは、モスクワでの大規模住宅計画を開始した。5~6階建てのアパートは、ソ連全土で見られ、その多くは1995年時点でも使用されている{{sfn|Tompson|1995|p=99}}。フルシチョフは、これらアパートには、プレハブ鉄筋コンクリートとして建築し、建築効率を大幅に向上させた{{sfn|Taubman|2003|p=226}}。アパートは、1946年から1950年にかけて、モスクワの通常の住宅建設速度の3倍の速さで完成したものの、エレベーターやバルコニーはなく、巷間ではフルシチョフカと呼ばれていたが、安普請な作りで、フルシチョフの名前と、ロシア語で「スラム街」を意味する「トルシチョバ」を組み合わせた、「フルシチョバ」と揶揄されていた<ref>{{cite book |title=Vocabulary of Soviet Society and Culture: A Selected Guide to Russian Words, Idioms, and Expressions of the Post-Stalin Era, 1953–1991 |author=Irina H. Corten |page=[https://archive.org/details/vocabularyofsovi00cort/page/64 64] |publisher=Duke University Press |year=1992 |isbn=978-0-8223-1213-0 |url=https://archive.org/details/vocabularyofsovi00cort/page/64 }}</ref>。1995年には、旧ソ連の住民約6千万人が、依然としてこれらの建物に住んでいた{{sfn|Tompson|1995|p=99}}。
====エピソード====
 
フルシチョフは、[[コルホーズ]]の統合計画を推進し、モスクワ州の集団農場の数を70%も減らした。これにより、議長1人での農場運営が困難となった{{sfn|Tompson|1995|pp=100–01}}。フルシチョフは、農業都市構想を実施しようとしたが、この件に関してのフルシチョフの演説は、1951年3月のプラウダ紙に掲載されたものの、スターリンは承服しなかった。スターリンは、プラウダに掲載されたフルシチョフの演説は、あくまでも構想段階であり、政策ではないという注釈をつけられた。1951年4月、政治局は農業都市構想を否定した。フルシチョフは、スターリンによって解任されるのを恐れたが、スターリンはフルシチョフを嘲笑して許した{{sfn|Taubman|2003|pp=228–30}}。
 
1953年3月1日、スターリンは[[脳卒中]]に見舞われた。担当医は恐怖におびえながらも、治療に当たり、フルシチョフとその同志達は、スターリン死去後の政府の新体制について議論した。3月5日、[[ヨシフ・スターリンの死と国葬|スターリンは死去した]] {{sfn|Taubman|2003|pp=236–41}}。
 
フルシチョフは後に、スターリンについて下記のように回想している。
 
<blockquote>
スターリンは、自身に同意しないものは、人民の敵と呼んでいた。スターリンは、人民の敵どもは、旧体制の復活を望んでおり、そのために人民の敵は、国際的にも反動勢力と結託しているのだと言っていた。その結果、数十万の無実の人々が死んだ([[大粛清]]参照)。スターリン時代は誰もが恐怖におびえていた。誰もが、真夜中にドアをノックする音があれば、ドアをノックされた事が致命的になるということはわかっていた。(中略)スターリンの意にそぐわない人は、レーニン指導の下、革命闘争の教育を受けた誠実な党員や品行方正な者であっても、また、目的のために忠実且つ勤勉な労働者であっても、絶滅された。このようなことは、全く持ってスターリンの恣意的な行為だった。そして、今これらは許され、忘れられてよいのだろうか?それは違う!{{sfn|Khrushchev|2006|pp=167–68}}。
</blockquote>
 
=== 権力闘争 ===
スターリン死去後、[[ゲオルギー・マレンコフ]]が首相の地位を受け継いだ。1953年3月6日、スターリンの死去が公表され、新しい指導者が発表された。マレンコフは、新閣僚評議会の議長となり、第一副議長として、[[ラヴレンチー・ベリヤ]](各保安局を掌握)、[[ラーザリ・カガノーヴィチ]]、[[ニコライ・ブルガーニン]]、そして、元外相の[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]が就任した。スターリンによって昇格されていた中央委員会議長会のメンバーには、降格されてしまった。フルシチョフは、党中央委員会での不特定の職務に従事するため、モスクワの党代表の職務を解かれた{{sfn|Tompson|1995|p=114}}。[[ニューヨーク・タイムズ]]は、10人いる議長について、マレンコフとベリヤを1位、2位として紹介し、フルシチョフは最下位の10位であった{{sfn|''The New York Times'', 1953-03-10}}。
しかし、マレンコフは、3月14日に、中央委員会書記局を辞任した{{sfn|Taubman|2003|p=245}}。これは、マレンコフが権力が強すぎるという懸念によるものだった。これによって、利益を受けたのはフルシチョフである。フルシチョフの名前は、改定された書記局の名簿リストのトップに載っており、フルシチョフが党の責任者となったということを意味している<ref>[https://www.britannica.com/EBchecked/topic/614785/Union-of-Soviet-Socialist-Republics "Union of Soviet Socialist Republics"] at ''[[Encyclopædia Britannica]]''</ref>。中央委員会は、正式に9月に、フルシチョフを党第一書記に指名した{{sfn|Taubman|2003|p=258}}。
 
スターリン死去後、ベリヤは、次々に改革策を打ち出していった。ウィリアム・トーブマンによると、「比類なき冷笑主義者であるベリヤは、イデオロギーに邪魔されることはなかった。もしも、ベリヤが権力闘争に勝利していたとしたら、ベリヤは抹殺を防ぐためであったとしても、ベリヤは、間違いなくその他の同志を抹殺していただろう。しかし、ベリヤの急激な改革は、フルシチョフのそれと比肩し、ある意味(当時を起点に)35年後のゴルバチョフのそれに匹敵するものであった{{sfn|Taubman|2003|p=245}}」例えば採用された提案の一つには、100万人以上の非政治犯を釈放するという提案があった。一方で却下された提案には、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の統一と中立化を行ない、西側から補償を得るという提案があったが{{sfn|Taubman|2003|pp=246–247}}、ただ、この提案はフルシチョフには反共産的であるとみなされた{{sfn|Khrushchev|2006|p=184}}。
フルシチョフは、マレンコフと結託し、ベリヤの提案の多くを阻止して、2人は徐々に評議会のその他の閣僚から支持を集めていった。反ベリヤ工作は、ベリヤが[[クーデター|軍事クーデター]]計画への恐怖と{{sfn|Tompson|1995|p=121}}、フルシチョフの回想録によると、「ベリヤは我々に対して[[ナイフ]]を、今まさに向けている状態」と確信したために、一層促進された{{sfn|Khrushchev|2006|p=186}}。フルシチョフとマレンコフの狙いは、ベリヤ派の有力な副大臣2人、[[セルゲイ・クルグロフ (政治家)|セルゲイ・クルグロフ]]と[[イワン・セーロフ]]を誘い出して、ベリヤを裏切らせることだった。彼らがベリヤを裏切ったことで、フルシチョフとマレンコフは、遅まきながら[[ソビエト連邦内務省|内務省]]の軍隊と[[大統領連隊|クレムリン警備隊]]の指揮権を失ったベリヤを逮捕することができる<ref>Timothy K. Blauvelt, "Patronage and betrayal in the post-Stalin succession: The case of Kruglov and Serov" ''Communist & Post-Communist Studies'' (2008) 43#1 pp 105–20.</ref>。1953年6月26日、ベリヤはフルシチョフとその同志による大規模な軍事準備を経て、閣僚会議の最中に逮捕された。ベリヤは秘密裏に裁判にかけられ、1953年12月に5人の側近と共に処刑された。ベリヤの処刑は、ソ連の権力闘争によって敗北死した最後の例であった{{sfn|Tompson|1995|p=123}}。
 
権力闘争はなおも続いた。マレンコフの権力は、中央国家に集中しており、政府を再組織して、共産党を犠牲にしてまで、権力増大をはかった。マレンコフは、小売価格の値下げと、長きにわたって義務付けられていた国債の販売水準を下げることで市民の支持を集めた。一方フルシチョフは、党内での権力基盤を活用し、党内における地位を固めようとした。ソ連体制下では、党が優先されるはずであったが、スターリン時代は、党の権力を形骸化させ、スターリンは権力の多くを、自分自身と政治局に移譲していた。フルシチョフは、[[ソビエト連邦最高会議幹部会]]での対立によって、再び共産党とその中央委員会に権力が再興するのではないかと考えた{{sfn|Tompson|1995|pp=125–26}}。フルシチョフは慎重に共産党の高級幹部を育成し、支持者を地方の党幹部に任命し、中央委員会の議席へと就かせることができた{{sfn|Taubman|2003|p=259}}
 
フルシチョフは、自身をチャレンジ精神のある人物と見せる一方、マレンコフはと言えば、洗練されており、つかみどころのない印象を与えていた{{sfn|Taubman|2003|p=259}}。フルシチョフは、[[クレムリン]]を一般公開するよう手配するなどして、大きな反響を巻き起こした{{sfn|Taubman|2003|p=263}}。マレンコフとフルシチョフは両者ともに農業改革を要求したが、フルシチョフの提案は、より広範なもので、それには、処女地開拓キャンペーンも含まれており、それは数十万人の若い志願者が[[西シベリア]]や[[北カザフスタン州|北カザフスタン]]にて農業を行うというものである。この計画は最終的にソ連の農業にとっては、とてつもない惨劇になったものの、当初はうまくいっていた{{sfn|Tompson|1995|p=174}}。さらに、フルシチョフは、ベリヤから没収した極秘ファイルにマレンコフの犯罪行為の書類を握っていた。ソ連の検察官は、スターリンの最晩年の残虐行為を捜査し([[レニングラード事件]]を含む)、マレンコフが関与していた証拠を見つけた。1954年2月以降、フルシチョフは、最高会議幹部会でマレンコフに代わって、主席を務めることとなった。1954年6月、マレンコフは、最高会議幹部会リストのトップの座を退き、それ以降は、アルファベット順に並び替えられた。フルシチョフの影響力は増大し、地方党首から支持を得て、フルシチョフが指名した人物が、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]の議長に君臨するようになった{{sfn|Taubman|2003|pp=260–264}}。
 
1955年1月の中央委員会会議において、マレンコフは、残虐行為への関与を非難され、中央委員会は、マレンコフのレニングラード事件への関与が、ベリヤの権力掌握に繋がったとして、マレンコフへの非難決議を可決した。翌月、儀礼的な会議と言われていた最高会議にもかかわらず、マレンコフは、[[ニコライ・ブルガーニン]]によって、降格処分を受け、西側の人間を驚かした{{sfn|Tompson|1995|p=141–42}}。
 
ポストスターリンを巡った争いは、外交方針にも影響を与えた。対ヨーロッパと[[中東]]に関しては、より現実主義的になり、イデオロギー的な抽象性は低下した。1956年のスターリン批判(極秘演説)は、スターリン主義との決別と、中東を含む更なる関与を含んだ新たなオプションの模索の現れとなった。権力を掌握したフルシチョフは、その性格を軟化させることはなく、予測できない人間で、宇宙進出への成功によって自信をつけた。フルシチョフは、宇宙開発によって、ソビエト連邦の世界的な威信が高まり、第三世界での共産主義の迅速な前進につながると考えていた。フルシチョフの政策は、最高会議幹部会の支持を得なければならず、一方ソ連の大衆は、[[スプートニク]]の成功に興奮しつつも、高い生活水準も要求しており、フルシチョフは大衆をなだめすかす必要もあったため、思ったような政策がとれないでいた<ref>Paul Marantz, "Internal Politics and Soviet Foreign Policy: A Case Study." ''Western Political Quarterly'' 28.1 (1975): 130–46. [https://www.jstor.org/stable/447860 online]</ref>。
 
=== 指導者として ===
マレンコフ失脚後、フルシチョフとモロトフは、当初は協同していた。モロトフは、マレンコフの後任首相に、ブルガーニンではなく、フルシチョフが就任すべきだと提案したこともある。しかし、両者の関係は、次第に政策面で意見の不一致が見られるようになった。モロトフは、処女地政策には反対で、代替策として、開拓済みの農業地帯で収穫量を増加させるために重点的に投資をすべきであると提案したが、一方のフルシチョフは、資源不足と、熟練の農業労働力の不足によって実現不可能であると考えていた。両者は、外交政策でも意見が合わなくなっていた。フルシチョフが権力を掌握した直後は、オーストリアとの平和条約締結を求め、これにより、同国の一部を占領していたソ連軍を引き上げさせることができると考えていた。モロトフは反対したが、フルシチョフはオーストリアの代表団が、モスクワに来て、条約交渉を行うよう手配した{{sfn|Fursenko|2006|p=27}}。1955年半ば、フルシチョフとその他の最高幹部会議の幹部達は、モロトフの外交政策をソ連を敵に回すものであるとして非難したが、モロトフは外相の地位にとどまっていた{{sfn|Taubman|2003|pp=266–69}}。
 
1955年の終わりまでに、数千人に及ぶ政治犯が釈放され、強制収容所での経験を話すようになっていた{{sfn|Taubman|2003|p=275}}。虐待に関する調査が続けられ、スターリンの犯罪の全容を知ることとなった。[[アナスタス・ミコヤン]]と協働していたフルシチョフは、スターリン主義の汚点が無くなれば、党は、人民の忠誠心を呼び起こすことができるだろうと考えた{{sfn|Taubman|2003|p=276}}。1955年10月から、フルシチョフは来る第20回党大会の代表たちに、スターリンの犯罪について話すために喧々諤々の議論を行なった。モロトフとマレンコフを含むフルシチョフの同志の何人かは、スターリンの犯罪の情報開示に反対し、非公開会議で発言するよう説得した{{sfn|Taubman|2003|pp=279–80}}。1956年2月14日に、第20回党大会が開会された。党大会の冒頭の演説で、フルシチョフは、前回の党大会以降に死去した党指導者への敬意を表して代表団に起立を求め、スターリンを[[クレメント・ゴットワルト]]や無名ではあるものの[[徳田球一]]と同一であるとして否定した{{sfn|Tompson|1995|p=153}}。2月26日早朝、フルシチョフは、「極秘演説」として知られる演説を、ソ連の代表者に限定した会議で行なった。フルシチョフは4時間で、スターリンの名声を打ち砕いた。フルシチョフは、回想録にて、「代表団は私の演説を静かに傾聴していた。ことわざにもあるが、ピン1本が落ちる音も消えたくらい静かだったかもしれない。何しろ全てが突然で予期せぬ出来事だったからだ」{{sfn|Khrushchev|2006|p=212}}。フルシチョフは代表団にこう呼びかけた。
 
<blockquote>スターリンが、自身の不寛容さ、自身の残忍さそして権力の濫用を見せつけたのはここだった。(中略)スターリンはしばしば、今まさに存在している敵に対してだけでなく、ソ連政府に対して何ら犯罪行為をなしていない者に対しても、弾圧や殺害の選択肢を取った{{sfn|''The New York Times'', 1956-05-06}}。
</blockquote>
 
この極秘演説は、ソ連社会の根本を変えるには至らなかったが、広範に影響を及ぼした。極秘演説は、ポーランド情勢を不安定にし、1956年の[[ハンガリー動乱]]の要因となり、スターリン擁護派は1956年6月にスターリンの故郷である[[グルジア]]で4日間に渡って暴動が起き、彼らはフルシチョフの辞任とモロトフの就任を求めた{{sfn|Taubman|2003|pp=286–91}}。極秘演説が読まれた場においては、共産主義者は、スターリン(並びにフルシチョフ)を一層激しく非難し、複数政党選挙制を要求した。しかし、スターリンは、公には非難されず、空港からフルシチョフのクレムリンの執務室まで、ソ連全土では、スターリンの肖像画が飾られたままであった。当時[[コムソモール]]の幹部であった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は、ゴルバチョフ担当地区の若く教養の高いソ連人は、この演説に興奮したが、多くはスターリンを擁護したり、過去をほじくり返すことに意味がほとんどないとして、この極秘演説を非難していたと回想している{{sfn|Taubman|2003|pp=286–91}}。40年後の[[ソ連崩壊|ソ連崩壊後]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]は、フルシチョフに対して、このような大きな政治的リスクを取り、道徳的な人間であることを示したとして賛辞を贈った{{sfn|Taubman|2003|p=282}}。
 
この極秘演説は、名ばかりの形式上のものであった。演説の出席者は全てソ連人であったが、東欧の代表団は、翌晩になって、ゆっくりと朗読され、演説のメモを取ることが許された。3月5日までに、演説のコピーがソビエト連邦全土に郵送され、「トップシークレット」というよりは「報道機関非公開」とされた。ポーランドでは、1か月以内にこの演説の内容が翻訳され、12,000部のコピーを印刷し、一部は、まもなく西側諸国へと到達した{{sfn|Taubman|2003|pp=279–80}}。フルシチョフの息子[[セルゲイ・フルシチョフ]]は、こう記している。「父が、たくさんの人にこの演説が届くようにしたのは間違いない。この演説はすぐに[[コムソモール]]の集会でも読まれ、そこから更に1800万人がこの演説を聞いた。もし、この1800万人の親戚や友人、知り合いを含めると、国全体がこの演説を聞いたことになる。春には(2月26日に行なった)極秘演説が世界中へと広まっていた。」{{sfn|Khrushchev|2000|p=200}}
 
フルシチョフは、マレンコフの権力基盤であった工業部門に対しての権限分散を図り、これによって、[[ソビエト連邦最高会議幹部会]]の反フルシチョフ派は、権限分散を反対する者たちによって増強されることとなる。1957年前半、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチは、ひそかにフルシチョフの追い落しのために支持を得るべく活動していた。フルシチョフの追い落としを図っていた彼らは、6月18日、2名のフルシチョフ派の幹部がソビエト連邦最高会議幹部会を欠席した際、計画に参画していた[[ニコライ・ブルガーニン]]を議長に据え、フルシチョフを降格させ、自分たちが支配権を掌握するように提案した。フルシチョフは、全議員にこの内容が周知されていないという理由で反対したものの、フルシチョフが[[ゲオルギー・ジューコフ]]国防大臣と、治安部門を通じて、軍を掌握していなかったとした場合、このフルシチョフの反対意見は、すぐに退けられていたであろう。こうして、最高会議は、数日続いた。権力闘争の情報が漏れると、フルシチョフが掌握している中央委員会の委員は、モスクワへと押し寄せ、大部分は軍用機でモスクワへと向かい、会議への出席許可を要求した。彼らは出席を認められなかったが、モスクワには緊急の党大会を招集できるだけの人数の中央委員が集まったため、指導部は、中央委員会会議の開催を認めざるを得なかった。陰謀の首謀者であるマレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ3人は、反党グループと呼ばれ、派閥主義とスターリンによる犯罪行為への加担を非難され糾弾された。3人は中央委員会と最高会議幹部会を追放され、元外相でフルシチョフ派でもあった[[ドミトリー・シェピーロフ]]も追放された。モロトフはモンゴル大使に左遷され、残る2人は、モスクワから遠く離れた工業施設や研究所の所長に任命された{{sfn|Tompson|1995|pp=176–83}}。
 
ジューコフは、フルシチョフの支持を得て、最高会議の正会員となったものの、フルシチョフはジューコフの人気と権力を恐れた。1957年10月、ジューコフは、バルカン半島視察に出かけたが、フルシチョフは、ジューコフ解任のための会議を開いた。ジューコフは、自身の解任会議が動議されていることを聞き、モスクワへと急遽戻ったものの、正式に解任を通告されてしまった。数週間後の中央委員会の会議で、ジューコフ擁護の発言は一言も発せられなかった{{sfn|Taubman|2003|pp=361–64}}。フルシチョフは、1958年3月には、ブルガーニン首相の解任、ソ連国防評議会の設立によって、自身を最高司令官とするなど権力基盤は不動のものとなった{{sfn|Tompson|1995|p=189}}。ただし、フルシチョフの権力は強化されたものの、スターリンほどの権力基盤は持っていなかった{{sfn|Tompson|1995|p=189}}。
 
==== 自由化と芸術 ====
[[ドゥディンツェフ]]の小説、「パンのみならず」{{sfn|Taubman|2003|p=307}}は、頭の固い官僚に反発される理想主義的なエンジニアについて書かれた小説で、1956年に出版されたが、この時フルシチョフはこの小説を「根本から間違っている」と指摘した{{sfn|Taubman|2003|p=308}}。1958年には、フルシチョフは、[[ボリス・パステルナーク]]の小説、「[[ドクトル・ジバゴ]]」が(ソ連での出版は却下されていたが)外国で出版された時、パステルナークを激しく非難するよう命じた。プラウダ紙は、ドクトル・ジバゴを「低俗極まりない反動的な作品」とこき下ろし、パステルナークは、作家連盟から追放された{{sfn|Taubman|2003|p=385}}。パステルナークが[[ノーベル文学賞]]を授与された際には、強い圧力を受けたため、受賞を辞退した。ノーベル文学賞辞退後、フルシチョフは、パステルナークへの攻撃を停止するよう命令した。フルシチョフは回想録において、ドクトル・ジバゴについては思うところがあり、出版許可を下す直前であったが、許可しなかったことを後悔していると述べた{{sfn|Taubman|2003|p=385}}。フルシチョフは自身が失脚後に、ドクトル・ジバゴのコピーを入手し、読破した(元々抜粋部分しか読んでいなかった)。そして、次のように述べた。「我々は、ドクトル・ジバゴの出版を禁止すべきでなかった。私が自分自身で読むべきだったのだ。何も反ソ連的なことは書いていなかったのだ。」{{sfn|Taubman|2003|p=628}}。
 
フルシチョフは、ソ連の生活水準は西側諸国と同等であると考えており<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=6DkdGcjM7tQ Khrushchev speech, Los Angeles, 19 September 1959]. Youtube</ref>、ソ連市民に対して、西側の成果を見せることを恐れなかった{{sfn|Zubok|2007|p=175}}。スターリンは、ソ連への観光客をほとんど受け入れておらず、ソ連市民の海外旅行も許可していなかった。フルシチョフは、ソ連市民に旅行を許可し(200万人以上の市民が1957年から1961年の間に外国旅行をし、そのうち70万人が西側諸国を訪れた)、外国人観光客も受け入れ、観光客は大きな好奇心の対象となった{{sfn|Zubok|2007|p=172}}。1957年、フルシチョフは、同年夏にモスクワで開催される第6回世界青年学生会議開催を承認した。フルシチョフは、コムソモールの職員に対して、「外国人ゲストを、厚く抱擁するように」と命じた{{sfn|Zubok|2007|p=174}}。こうして生まれた「社会主義カーニバル」は、300万人以上のモスクワ市民が参加し、3万人の若い外国人観光客と共に、モスクワ市内各地でのイベントなどを含め、様々なイベントに参加した{{sfn|Zubok|2007|pp=174–75}}。歴史家のウラジスラフ・ズボクは、このフェスティバルを、モスクワ市民が西側の人を自分自身の目で見ることによって、西側諸国についての「プロパガンダの定型文を打ち砕いた」と評している{{sfn|Zubok|2007|p=175}}。
 
1962年、フルシチョフは、[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]著作の「イワン・デニーソヴィチの一日」に感銘を受け、最高会議にて、出版許可を説得した{{sfn|Taubman|2003|pp=525–28}}。フルシチョフのこの寛容な姿勢は、1962年12月1日、彼がマネジ美術館で開催されていた前衛芸術作品を見た日に終わってしまった。前衛芸術作品を見たフルシチョフは、烈火のごとく怒り、俗に{{仮リンク|マネジ事件|en|Manege Affair}}として知られ、前衛芸術作品を「犬の糞」と評し{{sfn|Tompson|1995|pp=257–60}}、「ロバのしっぽの方がもっと良い作品ができる」と断じた{{sfn|Neizvestny|1979}}。1週間後、プラウダ紙は、芸術の純粋性を訴えかけた。作家や映画監督が、前衛芸術家を擁護すると、フルシチョフは、怒りの矛先を彼らにも向けた。しかし、フルシチョフが激怒したにもかかわらず、芸術家たちが逮捕されることはなかった。展示会はフルシチョフ訪問後もしばらくの間開催され、プラウダ紙の記事掲載後には、入場者数が大幅に増えた{{sfn|Tompson|1995|pp=257–60}}。
 
==== 政治改革 ====
フルシチョフ政権下では、治安当局による特別法廷は廃止された。この特別法廷はトロイカと呼ばれ、しばしば法律や手順を無視していた。フルシチョフの改革によって、政治犯罪の告発は、地方の党委員会の承認がなければ、通常の裁判所でも取り扱うことができなくなった。フルシチョフ政権下では、大規模な政治犯罪の裁判は行われること無くなり、せいぜい数百件の訴追がなされたに過ぎなかった。しかし、その代わり、ソ連の反体制派は、職場や大学における地位はく奪や、党の追放などといった制裁がなされていた。フルシチョフ政権下では、「社会的危険人物」に対しては強制入院という措置が取られるようになった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=41–42}}。フルシチョフ政権初期を分析した作家の[[ロイ・メドヴェージェフ]]は、「政府による日常的な手段による政治的テロは、フルシチョフによって、行政的な抑圧手段へと取って代わった」{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=41–42}}と評している。
 
1958年、フルシチョフは、中央委員会会議を数百人のソ連高官に公開した。何人かは演説を許可された。この時初めて、会議の議事録が書籍という体裁で公開され、その後の会議でもこの慣行は踏襲された。これらの公開によって、反対派は、大勢の反対派の前で意見を述べる必要があったため、フルシチョフは中央委員会に対して、大きな支配を確立することとなった{{sfn|Tompson|1995|pp=198–99}}。
 
1962年、フルシチョフは、州レベルの党委員会を工業と農業の二つの組織に分離させた。これは党幹部の間では不評で、両方の委員会書記のどちらが優先されるということが無くなってしまったため、指揮系統に混乱を招いた。各州の中央委員会の議席数は限られていたため、この分割によって、派閥争いにつながり、ロイ・メドベージェフによると、二大政党制になってしまう可能性もあった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=154–57}}。フルシチョフは、下級の評議会から中央委員会に至る各委員会に対して、議席の3分の1を互選とするよう命じた。これによって、フルシチョフと中央委員会との間に緊張が生まれ{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=153}}、フルシチョフが権力の座に就いた党首達を動揺させた{{sfn|Whitman|1971}}。
 
==== 農業政策 ====
フルシチョフは農業政策の専門家であり、ソ連の後進的な農業を至急改革する必要性を感じており、アメリカのやり方を取り入れようとした。フルシチョフは、特に集団農場、国営農場、機械トラクターステーションの整理、地方分権の計画、経済へのインセンティブ、労働と資本投資の増加、新しい農作物、新しい農業生産プログラムに傾注した。[[ヘンリー・フォード]]は、1930年代には、アメリカのソ連への技術移転を行なっており、フォードは、工場の設計や、エンジニア、熟練工、何万台ものトラクターを送り込んでいたことがある。1940年代には、フルシチョフは、アメリカの農業革新、特にアメリカ中西部の家族経営による大規模農場に強い関心を抱くようになっていた。1950年代、アメリカの農場と[[ランドグラント大学|土地付与大学]]を訪問する代表団を数回派遣したことで、高収穫の種子品種や、非常に大型で強力なトラクターやその他の機械を活用し、より近代的な管理技術によって成功した農場を視察するなどさせた<ref>Aaron Hale-Dorrell, "The Soviet Union, the United States, and Industrial Agriculture" ''Journal of World History'' (2015) 26#2 pp 295–324.</ref>。フルシチョフは1959年に訪米後、アメリカの優位性と農業技術を模倣し、アメリカと肩を並べる必要性を痛感していた<ref>Lazar Volin, "Soviet agriculture under Khrushchev." ''American Economic Review'' 49.2 (1959): 15–32 [https://www.jstor.org/stable/1816099 online].</ref><ref>Lazar Volin, ''Khrushchev and the Soviet agricultural scene'' (U of California Press, 2020).</ref>。
 
フルシチョフは、[[トウモロコシ]]栽培に熱心だった<ref>Aaron Hale-Dorrell, ''Corn Crusade: Khrushchev's Farming Revolution in the Post-Stalin Soviet Union'' (2019) [https://cdr.lib.unc.edu/downloads/hd76s0171 PhD dissertation version].</ref>。フルシチョフは、ウクライナにトウモロコシ研究所を設立し、処女地開拓キャンペーンの土地に数千ヘクタールの農地にトウモロコシを栽培するよう命じた{{sfn|Carlson|2009|p=205}}。1955年、フルシチョフは、ソビエト連邦において、[[アイオワ州|アイオワ]]風のトウモロコシ地帯を提唱し、同年夏、ソ連の代表団はアイオワ州を訪問した。代表団は、トウモロコシ種子販売業者の{{仮リンク|ロズウェル・ガースト|en|Roswell Garst}}と接触し、ガーストは自身が所有する大規模農場を訪れるように説得された<ref>Stephen J. Frese, "Comrade Khrushchev and Farmer Garst: East-West Encounters Foster Agricultural Exchange." ''The History Teacher'' 38#1 (2004), pp. 37–65. [http://www.jstor.org/stable/1555626 online].</ref>。ガーストは、ソ連を訪問し、フルシチョフと交友関係を結び、ガーストは、ソ連に対して、4500 tのトウモロコシ種子を販売した{{sfn|Carlson|2009|pp=205–06}}。ガーストは、トウモロコシはソ連南部での栽培と、肥料、殺虫剤、除草剤など十分な備蓄を確保するよう注意喚起した{{sfn|Taubman|2003|p=373}}。だが、ガーストのこの注意喚起もむなしく、フルシチョフはガーストの注意喚起を実行に移さず、シベリアでもトウモロコシを栽培しようとした。トウモロコシ栽培実験は、うまくいかず、フルシチョフは後に、熱心な官僚がフルシチョフを喜ばせようと、適切な土壌にしないまま過剰に植え付けたため、「トウモロコシは、[[サイレージ]]として信用は無くなってしまい、私(フルシチョフ)もそう思った」と不満を述べた{{sfn|Taubman|2003|p=373}}。
 
フルシチョフは、[[コンバインハーベスター|コンバイン]]や[[トラクター]]といった大型農業機械を所有するだけでなく、耕作などのサービスを提供していたトラクター機械ステーションを廃止し、当該設備と機能をコルホーズとソフホーズへ移管しようとした{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=85}}。1つの大規模なコルホーズに対して、サービスを提供するトラクター機械ステーションの試験運用がうまくいったため、フルシチョフは、段階的に移管を進めるよう命令したが、その後、急ピッチでの移管を命じた{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=86–87}}。3か月以内に、トラクター機械ステーションの半分以上が閉鎖され、コルホーズは、機械装置の購入を求められ、古い機械や老朽化した機械に対しては、割引もなかった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=87–89}}。トラクター機械ステーションの従業員は、コルホーズという鎖から逃げるため、そして、国による福利厚生や、転職の権利喪失を望まなかったため、彼らは都市部へと流入し、結果として熟練工の不足につながった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=89–91}}。機械の費用に加えて、機械装置用の保管倉庫や、燃料タンク建築費用が多くのコルホーズにとっては重荷になった。修理場の設備も不十分であった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=92–93}}。トラクター機械ステーションがなければ、コルホーズ新しい機械装置の購入も、熟練の買い手もいなかったため、ソ連の農業機械の市場は崩壊に至った{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=91–92}}。
 
かつてスターリンは1940年代に、[[トロフィム・ルイセンコ]]を農業研究の責任者に任命したが、ルイセンコの思想は、現代の遺伝科学を無視したものであった。ルイセンコは、フルシチョフ政権下でも影響力があり、アメリカの技術の導入を阻止した<ref>[[David Joravsky]], ''The Lysenko Affair'' (1970) pp 172–180.</ref>。1959年、フルシチョフは、牛乳、肉、バターの生産量でアメリカを追い抜くという目標を掲げた。地方の党幹部は、フルシチョフを喜ばせるべく、非現実的な生産目標を公約した。この生産目標は、農家が所有している家畜を殺害し、国営の店から肉を購入し、政府に転売することで生産目標を人為的に増加させた{{sfn|Tompson|1995|pp=214–16}}。
 
1962年6月、食肉とバターを中心として食料品価格が25~30%も値上げされた。これにより国民の間で不満が巻き起こった。南ロシアの[[ノヴォチェルカッスク]]([[ロストフ州]])では、この不平不満は[[ストライキ]]へと発展し、政府当局への反乱へとつながった。この反乱は軍によって鎮圧され、ソ連当局の発表では22人が死亡、87名が負傷した。さらに、116名のデモ参加者が有罪判決を受け、7名が処刑された。反乱に関する情報は、ソ連によって隠蔽されたが、[[地下出版]]を通じて広まり、西側諸国におけるフルシチョフの名声に傷がついた{{sfn|Taubman|2003|pp=519–523}}。
 
1963年、ソ連は[[旱魃|干ばつ]]に見舞われる。その結果、穀物の収穫高はピークであった1958年の1億2220万tの収穫高から9750万 tに落ち込んだ。この不作によって、パンの配給を求める行列ができたが、フルシチョフに対しては、この状況については、当初伏せられていた。西側諸国から食物を買うことについては消極的であったフルシチョフだったが{{sfn|Taubman|2003|p=607}}、飢饉が蔓延する状況に直面したため、フルシチョフは、国家の[[外貨準備|外貨準備高]]を使い果たして、[[金]]の備蓄の一部も費やして、穀物やその他食料品の購入を決定した{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=160–61}}<ref>Il'ia E. Zelenin, "N. S. Khrushchev's Agrarian Policy and Agriculture in the USSR." ''Russian Studies in History'' 50.3 (2011): 44–70.</ref>。
 
==== 教育 ====
1959年の訪米中、フルシチョフは、[[アイオワ州立大学]]の農業教育プログラムに感銘を受け、ソ連でもそれを模倣した教育プログラムを実践しようとした。また同時に、ソ連において主要な[[農業大学]]は、モスクワにあり、学生は農業に関して肉体労働をやっていなかった。フルシチョフは、教育プログラムを郊外に移すよう提案した。フルシチョフのこの提案は、フルシチョフに対して反対しなかったものの、フルシチョフの提案を実行しなかった大学教授陣や学生たちによって反対され、頓挫してしまった{{sfn|Carlson|2009|p=221}}。フルシチョフは、回想録にて、「モスクワに住み、農業アカデミーで働くのは良いことだ。農業アカデミーは、熟練指導者もいて、由緒ある古い機関であるし、大きな経済単位であるし、都市部にある!それがため、アカデミーの学生は集団農場で働くことを好まない。集団農場で働くとなると、田舎暮らしになるからだ」{{sfn|Khrushchev|2007|p=154}}。
 
フルシチョフは、学術都市として、[[アカデムゴロドク]]などの都市を創設した。フルシチョフは、多くの科学者が[[オックスフォード]]のような大学都市の近辺に住み、都会の喧騒とは無縁であること、そして、快適な生活環境と高給によって、西側の科学が栄えていると信じていた。フルシチョフは、ソ連でその環境を再現しようとした。フルシチョフの試みは概して成功し、フルシチョフの新しい都市や科学センターは、若い科学者を引き付けたものの、逆に年配の科学者はモスクワやレニングラードを離れたがらなかった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=108}}。
 
フルシチョフは、ソ連の高校再編を提案した。高校は大学入学のためのカリキュラムを提供していたものの、実際にはソ連の若者はほとんど大学に行くことはなかった。フルシチョフは、中等学校の重点を職業訓練に重きを置くことを望んでいた。つまり、学生は工場での仕事や、見習いで多くの時間を費やし、学校で過ごす時間を短くした{{sfn|Tompson|1995|pp=192–93}}。実際には、学校は近隣の企業と連携して、学生は、週に1日又は2日だけ出勤した。各組織は、教えることを嫌がり、学生とその家族は、どのような仕事を学ぶのかについての選択肢がほとんどないことに不満を抱いていた{{sfn|Tompson|1995|p=193}}。
 
これら職業に関する提案については、フルシチョフ失脚後はおざなりになってしまったが、とは言え、長く続いた改革は、才能ある学生や特定の科目に特化した高校の創設であった{{sfn|Kelly|2007|p=147}}。これらの学校は、1949年からモスクワやレニングラードにて設立されていた外国語学校をモデルとしたものであった{{sfn|Laurent|2009}}。1962年、[[ノヴォシビルスク]]に、シベリアの数学・科学オリンピックのために特別サマースクールが設立された。翌年、ノヴォシビルスクに数学・科学を専門とする寄宿学校が、初の常設寄宿学校として常設された。このような学校は、モスクワやレニングラード、キエフにも設立された。1970年初頭までに、数学、化学、芸術、音楽、スポーツに特化した学校が100校以上も開設された{{sfn|Kelly|2007|p=147}}。フルシチョフが失脚するまでに、就学前教育が強化され、ソ連の子供の22 %が、就学前教育に通学するようになり、これは都市部の児童の約半数に相当していた。ただし、農村部の子供については12 %にとどまっていた{{sfn|Perrie|2006|p=488}}。
 
==== 反宗教キャンペーン ====
フルシチョフ政権の反宗教キャンペーンは1959年に始まり、同年の第21回党大会と同時期のことであった。この運動は、教会<ref name="demokratizatsiya1">{{cite journal|doi=10.3200/DEMO.17.1.73-92|author=Daniel, Wallace L. |year=2009|title=Father Aleksandr men and the struggle to recover Russia's heritage|journal= Demokratizatsiya|volume= 17|issue=1|pages=73–92}}</ref><ref name="regels1">Letters from Moscow, Gleb Yakunin and Lev Regelson, {{cite web |author=Yakunin, Gleb |author2=Regelson, Lev |url=http://www.regels.org/humanright.htm |title=Religion and Human Rights in Russia |access-date=18 June 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090816211643/http://www.regels.org/humanright.htm |archive-date=16 August 2009}}</ref>によって実行され(1959年に22,000堂あったが{{sfn|Pospielovsky|1987|p=83}}、1960年には13,008堂、1965年までには7873堂<ref>Chumachenko, Tatiana A. in ''Church and State in Soviet Russia: Russian Orthodoxy from World War II to the Khrushchev years''. Edward E. Roslof (ed.). (ME Sharpe, 2002) p. 187. {{ISBN|9780765607492}}</ref>にまで減らされた)、[[修道院]]、女子修道院、そして、既存の[[神学校]]も大量に閉鎖された。反宗教キャンペーンは、宗教教育の親の権利の制限も含まれていた。他にも礼拝への子供の同席禁止(1961年には[[バプテスト教会]]にも適用され、1963年には、正教会にも適用)、4歳以上の子供の[[聖餐|聖餐式]]の禁止を行なった。フルシチョフは、更に教会外で行われる全ての礼拝を禁止し、巡礼禁止を制定した1929年の法律を再施行し、教会での洗礼、結婚、葬式を執行する成人の身元を記録した<ref name="autogenerated377">{{cite journal|jstor=3712491|author=Tchepournaya, Olga |title= The hidden sphere of religious searches in the Soviet Union: independent religious communities in Leningrad from the 1960s to the 1970s|journal= Sociology of Religion|volume= 64|issue=3 |pages=377–388 |year=2003|doi=10.2307/3712491 }}</ref>。フルシチョフは、5月から10月までに農村部において、現地調査という口実で、教会のベルを鳴らすことや礼拝を禁止した。聖職者がこれらの規則を遵守しない場合、国からの許可が得られなくなる(国の許可なしに礼拝等を行うことができないということになる)。{{仮リンク|ドミトリー・ポスピエロフスキー|en|Dimitry Pospielovsky}}によると、国家は、捏造によって、聖職者の強制引退、逮捕や禁固刑に処していたが、実際には、教会閉鎖に抵抗した者、つまりソ連国家の無神論と反宗教キャンペーンに反対した聖職者や、キリスト教慈善活動を行なった聖職者、宗教を広めた聖職者に対して国家措置を取ったのであるとしている{{sfn|Pospielovsky|1987|p=84}}。
 
==== 国防政策 ====
1950年から1953年まで、フルシチョフは、クレムリンの中枢で、スターリンの外交政策を観察し、評価する立場にあった。フルシチョフは、冷戦自体をスターリンの重大な過ちであると考えていた。長期的な視点では、[[北大西洋条約機構|NATO]]という強力な資本主義連合との軍事競争を生み出した。この軍事競争はソ連にとっては全く不必要なものであり代償は高くついた。中立的な発展途上国から注意をそらし、[[東ヨーロッパ|東欧]]の[[衛星国]]とのモスクワの関係が希薄になってしまった。基本的に、フルシチョフはスターリンやモロトフよりは将来については楽観的であり、国際主義者であった。フルシチョフは、世界の労働者階級と一般庶民は、最終的には社会主義実現に向けて、恐らくは共産主義実現に向かう道を見つけ、冷戦のような紛争は、この最終的な目標から注意をそらせるものだと考えていた。その代わりに支持を得ていたのは、かつてレーニン自身が実践しようとしていた平和共存であった。
 
そうすることで、ソ連とその衛星国は、経済と生活水準を向上させることができる。具体的に言えば、フルシチョフはスターリンの失策、例えば、1945年と1946年にイランとトルコに対して圧力をかけたことや、1948年のベルリン封鎖等を指摘した。1953年にマレンコフがスターリンの後継者となったときには、マレンコフが西側諸国との良好な関係を構築し、アフリカやアジアがヨーロッパの植民地から独立するという共産党運動との関係を構築したことを言及し、フルシチョフは喜んだ。ドイツ情勢は、フルシチョフにとっては重大事項であり、それはNATOによる東方侵攻を恐れたからではなく、経済的に東ドイツは西ドイツよりも見劣りしてことで弱体化されたからである。フルシチョフはモロトフが[[ユーゴスララビア]]との紛争を解決できず、東欧の衛星国の必要性をほとんど無視していたことを非難していた。
 
フルシチョフは、[[北大西洋条約機構|NATO]]との協定を迅速に合意する手段として、[[オーストリア]]を選択した。オーストリアは経済的には西側と結びついているが、外交的には中立で脅威を持たない小国になった<ref>Aleksandr Fursenko, and Timothy Naftali, ‘'Khrushchev's cold war: the inside story of an American adversary'’ (2006) pp 23–28.</ref>。
 
フルシチョフが権力を掌握した時、ソ連国外での知名度は低く、当初フルシチョフに対しての印象は薄かった。背は低く、太ってて体に合わないスーツを着ており、フルシチョフは「活力に満ち溢れていたが知性はなかった」ため、長くは続かないだろうとみられていた{{sfn|Tompson|1995|p=146}}。イギリス外務大臣の[[ハロルド・マクミラン]]は、「フルシチョフは、豚のような眼で絶え間なく喋るこの下品な男が、どうして数百万人の国民の頂点、つまりは[[ツァーリ]]を目指す人物になれるだろうか?」と疑問を呈していた{{sfn|Tompson|1995|p=149}}。フルシチョフの伝記作家、トンプソンはフルシチョフを気分屋であるとしている。
 
<blockquote>
フルシチョフは、魅力的であったり、下品であったり、陽気だったかと思えば不機嫌だったり、人前で怒りを露わにしたり(わざとらしいことも)、レトリックでは誇張表現を好んだりしていた。だが、フルシチョフがどんな人物であれ、フルシチョフは前任者や外国の応対者よりも人間的であり、世界の多くにとって、ソ連を神秘的で脅威ではないように見せるに足る人間であった{{sfn|Tompson|1995|p=150}}。
</blockquote>
 
==== アメリカとNATOとの関係 ====
[[File:Nikita-Khrushchev-TIME-1958.jpg|thumb|upright=0.85|[[スプートニク・ショック]]で1957年の[[パーソン・オブ・ザ・イヤー]]に選ばれたフルシチョフ]]
[[ファイル:Dwight Eisenhower Nikita Khrushchev and their wives at state dinner 1959.png|right|200px|thumb|アメリカの[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領夫妻とフルシチョフ夫妻(1959年)]]
[[File:Kitchen debate.jpg|thumb|200px|right|[[リチャード・ニクソン]]副大統領と「台所論争」を行うフルシチョフ]]
フルシチョフは激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、[[1956年]][[11月18日]]にモスクワの[[ポーランド]][[大使館]]でのレセプションで、西側諸国の[[大使]]に向って「[[あんたらを葬ってやる]]」('''{{lang-ru|Мы вас похороним!}}''')との暴言を吐いたことである。
 
他にも[[1960年]]10月12日の[[国際連合総会]]で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、[[フィリピン]]の[[ロレンソ・スムロン]]代表が「ソ連の東ヨーロッパ諸国への関与こそ正に[[植民地主義]]であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、[[靴叩き事件|腕時計が壊れるほど拳で机をバンバン叩き始めてスムロンの演説を妨害した事件]]<ref>{{Cite web|和書|url =https://jp.rbth.com/history/80995-kokuren-de-furushichofu-ha-kutsu-de-tsukue-wo-tataita-ka |title =ソ連時代の神話を検証する:国連でフルシチョフは靴で机を叩いたか? |publisher =jp.rbth.com |date =2018-10-11 |accessdate =2018-10-12 }}</ref> がある。
 
フルシチョフは、分断された[[西ドイツ|ドイツ]]と[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]領土の奥深くにある[[西ベルリン]]の飛び地の問題に関して、永続的な解決策を検討した。1958年11月、フルシチョフは、西ベルリンを「悪腫瘍」と呼び、アメリカ、イギリス、フランスに対して東西ドイツとソ連との間に平和条約を締結するよう6か月の猶予を与えた。もし、条約調印がなされない場合、フルシチョフは、ソ連は東ドイツに対して平和条約を調印すると述べた。これはつまり、西側諸国にベルリンへの通行許可を与える条約を締結していない東ドイツが、ベルリンへの通行ルートを管理するということになる。ベルリンを自由都市として、軍隊を駐留させないということも提案した。西ドイツ、アメリカそしてフランスは、最後通牒に反対したが、イギリスは、交渉の足掛かりと考えていた。この件に関して、各国共に戦争勃発のリスクを冒したくなかった。イギリスの要望によって、フルシチョフは最後通牒を延期し、ベルリン問題は首脳会議の複雑な議題の一部となった{{sfn|Tompson|1995|pp=195–96}}。
また、1959年7月にアメリカの[[リチャード・ニクソン]]副大統領がモスクワを訪問した際に、博覧会会場に展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、ソ連の人工衛星である「スプートニク」の開発成功・アメリカにおける宇宙開発の遅れ・アメリカの自由経済とソ連の[[計画経済]]を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。この際に、ニクソンは消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのとは対照的に、フルシチョフは自国の宇宙及び軍事分野における成功を感情的にまくしたてた。その討論内容は後に「[[台所論争]]」(キッチン討論)として有名になった。
 
フルシチョフは、通常兵器を大幅に削減し、ミサイルによる防衛を試みた。フルシチョフは、この移行がなければ、ソ連の巨大な軍事力は、資源を食い尽くし続け、ソ連の生活水準の向上は実現困難であると考えていた{{sfn|Tompson|1995|pp=187, 217}}。フルシチョフは、スターリンによる大海軍計画については、新しい艦船が通常兵器による攻撃、又は核攻撃に対してはあまりにも脆弱すぎると考え、1955年には、これを破棄した{{sfn|Zubok|2007|p=127}}。1960年1月には、アメリカとの関係改善を利用して、ソ連軍の規模を3分の1に縮小するよう命じ、削減した分については、より高性能な兵器で補うのだと主張した{{sfn|Tompson|1995|pp=216–17}}。ソ連の若者に対しての徴兵制は引き続き施行されていたが、兵役免除は、学生身分に対しては一般的なものとなった{{sfn|Zubok|2007|pp=183–84}}。
=== 失脚 ===
 
フルシチョフは、スプートニク発射後の1957年のタイム誌で「[[パーソン・オブ・ザ・イヤー]]」に選出された。作家のキャンベル・クレイグと歴史家の{{仮リンク|セルゲイ・ラドチェンコ|en|Sergey Radchenko}}は、フルシチョフは[[相互確証破壊]](MAD)政策は、ソ連にとってはリスクが大きいと考えていたと主張している。フルシチョフのアプローチは、外交政策や軍事政策を大きく変えることはなかったものの、戦争勃発のリスクを最小限に抑えようとしていたことが、フルシチョフの決意に表れていた<ref>Campbell Craig and [[Sergey Radchenko]], "MAD, not Marx: Khrushchev and the nuclear revolution." ''Journal of Strategic Studies'' (2018) 41#1/2:208-233.</ref>。ソ連には運用可能な[[大陸間弾道ミサイル]](ICBM)はほとんど配備されていなかった。それにもかかわらず、フルシチョフはソ連のミサイル計画を公に自慢しており、ソ連の兵器は多種多様でその数も多いと主張していた。フルシチョフは、ソ連は進んだ国であるということを国民が認識していることが、西側諸国に対しての心理的圧力となり、西側諸国が政治的な譲歩が得られることを期待していた{{sfn|Tompson|1995|p=188}}。フルシチョフはソ連の宇宙計画を強く支持し、ソ連は[[スプートニク1号]]を打ち上げ、世界を驚愕させたことで、フルシチョフの主張の裏付けが取れたように見えた。そして、スプートニク1号打ち上げ後、軌道になったことが明らかになると、西側諸国政府は、ソ連のICBM計画は、実際よりも進んでいると結論付けた<ref>Walter A. McDougall, "The Sputnik Challenge: Eisenhower's Response to the Soviet Satellite." ''Reviews in American History'' 21.4 (1993): 698–703.</ref>。フルシチョフは、1957年10月に行われたインタビューでは、ソ連はありあらゆるロケットを、どんなサイズのものであれ、全て持っていると述べ、この誤解に一層拍車がかけられた{{sfn|Tompson|1995|p=187}}。フルシチョフは長年、外国を訪問する前に、ロケットを打ち上げることを心掛け、訪問国を混乱させた{{sfn|Tompson|1995|p=187}}。1960年1月、フルシチョフはソ連最高会議にて、ソ連のICBMによってアメリカとの合意が可能になったのは、「一般のアメリカ人が人生で初めて恐怖を感じ始めた」ためだと語った{{sfn|Zubok|2007|p=131}}。実際のところ、1950年代後半の上空飛行による偵察で、ソ連のミサイル計画が未発達であることはつかんでいたが、ソ連の欺瞞を知っていたのはアメリカ政府高官に限られていた。アメリカ政府とアメリカ国民の「ミサイルギャップ」に対する認識は、アメリカの防衛力の大幅な増強につながった{{sfn|Tompson|1995|p=188}}。
 
1959年の[[リチャード・ニクソン]]副大統領の訪ソ中に、ニクソンとフルシチョフは、後に[[台所論争]]と呼ばれる論争を引き起こした。彼らはモスクワの{{仮リンク|アメリカ博覧会|en|American National Exhibition}}のモデルキッチンで、両国の経済システムの利点について激論を交わした{{sfn|Whitman|1971}}。
 
ニクソンはフルシチョフをアメリカに招待し、フルシチョフは受け入れた。フルシチョフは1959年9月15日にワシントンへと到着し、初のアメリカ訪問を果たし、同国で13日間滞在した。ソ連首脳の初訪米はメディアを大いに騒がせた{{sfn|Carlson|2009|p=247}}。フルシチョフは妻と成人した自身の子息たちを連れていたが、ソ連の政府高官が家族と共に旅行することは通常ではありえなかった{{sfn|Taubman|2003|pp=421–22}}。フルシチョフが視察したアメリカの街は、[[ニューヨーク]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]](スーパーマーケット訪問のため)、[[アイオワ州]][[ クーンラピッズ (ミネソタ州)|クーンラピッズ]](先述のロズウェル・ガーストの農場訪問のため)、[[ピッツバーグ]]、[[ワシントンD.C.]]で{{sfn|Carlson|2009|p=63}}、[[キャンプ・デービッド]]では、アイゼンハワー大統領との会談で幕を閉じた{{sfn|Carlson|2009|pp=226–27}}。ロサンゼルス視察時は、[[20世紀スタジオ]]で昼食会を行ない、フルシチョフは資本主義と共産主義のそれぞれのメリットについて、ホストを務める{{仮リンク|スピロス・スコウラス|en|Spyros Skouras}}と、当初の予定にはなかった議論を陽気に行なった<ref>[https://www.youtube.com/playlist?list=PLUQ88MsGVT2GWoHtL3GbYhHnLOe22MPRc Khrushchev speech, 19 September 1959]. Youtube</ref>。フルシチョフは[[ディズニーランド]]も訪問する予定だったが、セキュリティ面から訪問は不可能となり、フルシチョフは大いに不満を感じた{{sfn|Carlson|2009|pp=155–59}}<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=5pRaYsbFpKY Khrushchev speech, Los Angeles, 19 September 1959]. Youtube</ref>。しかしながら、フルシチョフは、[[エレノア・ルーズベルト]]の自宅を訪問した{{sfn|Carlson|2009|p=133}}。フルシチョフは、[[カリフォルニア州]][[サンノゼ]]の[[IBM]]の新しい研究拠点を訪問し、コンピューターテクノロジーにはほとんど興味を示さなかったが、IBMのカフェテリアのセルフサービスには感心し、帰国後、ソ連にもセルフサービスを導入した{{sfn|Khrushchev|2000|p=334}}。
 
この訪米の結果、ベルリンをめぐる問題については、期限は定めなかったものの、問題解決のために、非公式ではあるが4か国による首脳会談を行なうことになった。ロシア人の目標は、率直なインタビューをすることで、アメリカ人の人間性と善意を納得させて、ロシア側の温和さ、魅力、平和的な姿勢を示すことであった。フルシチョフは、これを見事にやってのけ、セオドア・ヴィントは、この訪米を「フルシチョフのキャリアの頂点」であるとした<ref>Theodore Otto Windt Jr., "The Rhetoric of Peaceful Coexistence: Khrushchev in America, 1959" ''Quarterly Journal of Speech'' (1971) 57#1 pp 11–22.</ref>。友好的なアメリカの聴取は、フルシチョフとアイゼンハワーが強い関係を築き上げ、アメリカとのデタントが達成できると確信させた。ただし、アイゼンハワーは実際にはフルシチョフに対して、取り立てて感銘を受けなかった{{sfn|Tompson|1995|p=211}}。アイゼンハワーは、首脳会談を即時開催を求めたが、フランス大統領 [[シャルル・ド・ゴール]]によって頓挫し、結局アイゼンハワーがソ連を訪問する予定だった1960年までに延期されてしまった{{sfn|Tompson|1995|p=218}}。
 
==== U-2とベルリン危機 ====
米ソ関係で常に問題となっていたのは、アメリカの[[U-2 (航空機) |U-2偵察機]]によるソ連上空飛行であった。1960年4月9日、アメリカは長らく中断していたソ連上空の偵察飛行を再開した。ソ連は、このような偵察飛行に対して抗議していたが、ワシントンは黙殺していた。フルシチョフは、アイゼンハワーと強い絆で結ばれていると考えていたため、飛行再開には困惑し、怒りを感じ、フルシチョフは、[[中央情報局|CIA]]長官[[アレン・ダレス]]が、大統領であるアイゼンハワーを無視して、偵察飛行を命じていたと結論付けた。フルシチョフは、アイゼンハワー面談のための訪米計画があったが、ソ連空軍がアメリカの[[U-2撃墜事件|U-2を撃墜]]したため、訪米は中止された<ref>{{Cite news|url=https://www.washingtonpost.com/archive/business/2000/11/10/gem-of-a-jeweler-faces-a-final-cut/d2394c5f-de3a-4db3-8792-3c1ddeba959c/|url-access=limited|title=Gem of a Jeweler Faces a Final Cut|last=Hamilton|first=Martha|date=10 November 2000|newspaper=The Washington Post|access-date=6 April 2019}}</ref>。1960年5月1日、U-2は撃墜され、同機パイロットの[[フランシス・ゲーリー・パワーズ]]は捕虜になった{{sfn|Tompson|1995|pp=219–20}}。アメリカ側はパワーズが死亡したと考えたため、気象観測機が[[トルコ]]とソ連の国境付近で墜落したと発表した。フルシチョフは、撃墜を発表したとすると、来る5月16日のパリでの首脳会談を台無しにするリスクがあったものの、しかし、かと言って何もしなければソ連軍軍部や治安部隊には弱腰と捉えられるだろうというリスクもあった{{sfn|Tompson|1995|pp=219–20}}。最終的に5月5日、フルシチョフは、U-2偵察機の撃墜とパワーズの拘束を発表し、偵察機飛行については、「国防総省を拠点とした帝国主義勢力と軍国主義者」によるものであるとして、偵察機の飛行はアイゼンハワーの関知によるものではないことを示唆した{{sfn|Tompson|1995|p=223}}。アイゼンハワーは、[[アメリカ合衆国国防総省|国防総省]]に、自身が関知しない範疇で活動する、ならず者が存在することにするわけには行かず、「不愉快な必要性」と称して、自身が偵察機の飛行を命じたことを認めた{{sfn|Tompson|1995|p=224}}。アイゼンハワーのこの告白はフルシチョフを唖然とさせ、U-2撃墜事件は、フルシチョフにとっては、勝利の可能性から災難へと変わり、フルシチョフは、アメリカ大使{{仮リンク|ルウェリン・トンプソン|en|Llewellyn Thompson}}に助けを求めることになった{{sfn|Tompson|1995|p=225}}。
 
フルシチョフは、パリ行きの飛行機に乗りながらも、いざ首脳会談で何をすべきか決めかねていた。フルシチョフは、最終的に機内の側近やソ連最高会議の幹部と相談し、アイゼンハワーから謝罪を引き出し、そして、今後ソ連領空でのU-2での偵察飛行禁止の確約を引き出すことに決定した{{sfn|Tompson|1995|p=225}}。フルシチョフとアイゼンハワーは、両者ともに首脳会談の数日前にお互いに連絡を取っておらず、首脳会談ではフルシチョフが要求を出し、首脳会談は何の目的もなく、1960年の大統領選挙が終わるまで、6か月から8か月延期すべきだと主張した。アイゼンハワーは謝罪しなかったものの、偵察飛行の禁止は受け入れ、米ソ両国の相互飛行権に関して、[[オープンスカイズ条約]]を更新した。しかし、フルシチョフは満足せず、首脳会談から退席した{{sfn|Tompson|1995|pp=219–20}}。アイゼンハワーは、フルシチョフのこの行動を受けて、「世界の多くの希望がかかっていた会議を妨害した」と非を鳴らした{{sfn|UPI 1960 Year in Review}}。ソ連側は、アイゼンハワーの訪ソ時に、アイゼンハワーが好んだスポーツを楽しめるよう[[ゴルフ場]]まで建設していたが{{sfn|Taubman|2003|p=441}}、フルシチョフによってキャンセルとなった{{sfn|Taubman|2003|p=469}}。フルシチョフは1960年9月に、二度目で最後の訪米を行なった。フルシチョフは、招待を受けていたわけではなかったが、自身をソ連の国連代表団の団長に任命していた{{sfn|Carlson|2009|pp=265–66}}。フルシチョフは、最近独立を果たした[[第三世界]]の国々をソ連に引き寄せることに時間を費やした{{sfn|Tompson|1995|p=230}}。アメリカ政府は、フルシチョフの行動範囲を[[マンハッタン島]]に制限し、[[ロングアイランド]]にあるソ連の邸宅を訪問した。悪名高い[[靴叩き事件]]は、植民地主義非難のソ連の決議案を巡って10月12日の議論中に発生した。フルシチョフは、[[フィリピン]]代表の[[ロレンソ・スムロン]]による、ソ連は東欧を支配下におきながら植民地主義を非難することは[[二重規範|ダブルスタンダード]]であるという指摘に対して、激怒した。フルシチョフは、即座に反論する権利を要求し、スムロンを「アメリカの帝国主義者に隷属する下僕」と非難した。スムロンは演説を再開し、ソ連の偽善を非難した。フルシチョフは自身の靴を引きはがして、靴で机をたたきつけ始めた{{sfn|Carlson|2009|pp=284–86}}。フルシチョフのこの行動は、ソ連代表団にとってあきれさせるものだった{{sfn|Zubok|2007|p=139}}。
 
フルシチョフは、アメリカ副大統領[[リチャード・ニクソン]]をタカ派と考えており、1960年の大統領選挙でニクソン敗北を喜んだ。フルシチョフは、元[[マサチューセッツ州]][[合衆国上院|上院]]議員の[[ジョン・F・ケネディ]]大統領を[[デタント]]実現に向けた最良のパートナーであると考えていたが、ケネディ政権初期の強硬な言動や行動に関しては驚きを隠せなかった{{sfn|Tompson|1995|p=232}}。フルシチョフは、人類初の有人飛行によって1961年4月に、プロパガンダ面では勝利を収めていたものの、一方のケネディは[[ピッグス湾事件]]での失策によって敗北を喫していた。フルシチョフは、ソ連のミサイルによって[[キューバ]]の防衛を行なうと脅していたが、事後の攻撃的な発言で満足していた。キューバでの失策により、ケネディは1961年6月3日に予定されていた[[ウィーン会談]]では譲歩しない決意をした。首脳会談を迎え、フルシチョフとケネディ両者ともに強硬路線を取り、フルシチョフは、東西ドイツ承認の条約を要求し、核実験禁止条約を阻む残りの問題については譲歩しなかった。対照的にケネディは、核実験禁止条約は首脳会談時点で締結できると信じており、ベルリンに関する取り決めについては東西の緊張緩和を待つべきであると考えていた。ケネディは、弟の[[ロバート・ケネディ]]に、「親父と交渉するようなものだった。ギブアンドテイクではなくて、ギブばかりでノーテイクだった」と述べた{{sfn|Tompson|1995|pp=233–35}}。
 
ベルリンに関しての無期限延期は、フルシチョフにとっては受け入れがたいものであったが、その理由は、高学歴の東ドイツ人が、ベルリンを経由して西ドイツへと亡命し、東ドイツ側としては、このような高学歴の東ドイツ人が流出していたという悩みの種があったからである。東西ドイツの境界は別の場所では強化されていたものの、ベルリンについては、連合国4か国の管理下にあったが、国境は開放されたままであった。[[チャールズ・E・ボーレン]]元駐モスクワ米大使と[[J・ウィリアム・フルブライト]][[アメリカ合衆国上院外交委員会|アメリカ上院外交委員長]]の「東ドイツには国境を閉鎖する権利がある」という言質を取っていたフルシチョフは、東ドイツの[[国家評議会議長]][[ヴァルター・ウルブリヒト]]に、[[西ベルリン]]を取り囲む後に[[ベルリンの壁]]となる建設物の開始権限を与えた。[[ベルリンの壁]]建設の準備については、極秘裏に進められ、東西ベルリンの国境は1961年8月13日日曜日の早朝に閉鎖された。この時間帯は、西ベルリンで勤務することで外貨を稼いでいた東ドイツの労働者のほとんどが自宅にいる時間帯であった。ベルリンの壁はプロパガンダ上の大失敗となり、連合国4か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)と東西ドイツの平和条約締結の望みは無くなった{{sfn|Tompson|1995|pp=235–36}}。結局平和条約は、[[ドイツ再統一]]の前兆となる1990年9月まで締結されなかった。
 
==== キューバ危機と核実験禁止条約 ====
[[File:JFK Khrushchev Handshake 1961.jpg|right|200px|thumb|アメリカの[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]大統領と(1961年・ウィーンにて)]]
フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかに[[w:Nikolai Ignatov|ニコライ・イグナトフ]]、[[アレクサンドル・シェレーピン]]、[[ウラジーミル・セミチャストヌイ]]、[[レオニード・ブレジネフ]]らが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落とし、あるいは[[暗殺]]を着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をも企んだとも言われている<ref>ソ連崩壊後のV.A.スタルコフによるセミチャストヌイへのインタビュー。</ref>。
 
米ソ両国の緊張は、1962年10月の[[キューバ危機]](ソ連側の名称は「カリブ海危機」)で、頂点に達し、ソ連はアメリカ沿岸から90マイル(140 km)離れたキューバに中距離核ミサイルを設置しようとしていた{{sfn|Whitman|1971}}。[[キューバ]]の[[フィデル・カストロ]]首相は、ミサイルの受け入れに難色を示し、一旦説得に応じたものの、フルシチョフに、ミサイルの極秘裏に輸送を行なわないように警告した。カストロは、30年後に「我々はミサイルを受け入れることについては主導的な権利を保有していた。我々は国際法を破っていたわけではない。なぜ極秘裏に行うのか?あたかも我々に権利が無いかのようだった。私はフルシチョフに、極秘裏に行うと、帝国主義者が有利になってしまうと警告した」{{sfn|Fursenko|2006|pp=469–72}}。
宮廷[[クーデター]]の噂は密かに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子のセルゲイや娘のラーダに接触した。セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。
 
10月16日、ケネディは、キューバ上空でU-2が中距離核ミサイルの配備基地と思われるものを発見したと知らされ、ケネディとその顧問は、外交ルートを通じてフルシチョフとの接近を検討したものの、弱みを見せないにする方法については思いつかなかった{{sfn|Fursenko|2006|pp=465–66}}。10月22日、ケネディはテレビで国民に演説し、ミサイルが配備されていることを明らかにして、キューバ封鎖を発表した。フルシチョフはケネディが演説をすることについては事前に知らされていたが、その内容については(演説1時間前まで)知らされておらず、フルシチョフとその側近は、キューバ侵攻を危惧した。ケネディの演説前に、フルシチョフ達は、キューバのソ連軍司令官に、外敵からの攻撃に対しては、核兵器を除くあらゆる兵器の使用を命じた{{sfn|Fursenko|2006|pp=469–72}}。
[[1964年]]10月、[[黒海]]沿岸の[[リゾート]]地{{仮リンク|ピツンダ|en|Pitsunda}}で休暇中のフルシチョフと[[アナスタス・ミコヤン]]は、[[ミハイル・スースロフ]](一説ではブレジネフ)からの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の[[ソビエト連邦共産党中央委員会|中央委員会]]総会」のためにモスクワに呼び戻された。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの[[更迭]]を要求した。ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された上、ミコヤンは多くの中央委員から強い非難を受けた。
 
キューバ危機が展開する中、アメリカでは緊張が高まっていたが、ソ連はそれほどでもなく、フルシチョフは、幾度か公共の場に姿を現し、モスクワで公演中であったアメリカのオペラ歌手・{{仮リンク|ジェローム・ハインズ|en|Jerome Hines}}のコンサートのために、[[ボリショイ劇場]]に足を運ぶなどしていた{{sfn|Whitman|1971}}{{sfn|''Life'', 1962-11-09}}。10月25日までに、ソ連はケネディの意向がはっきりしないまま、フルシチョフは、ミサイルをキューバから引き上げなければならないとした。2日後、ケネディに対して、ミサイル引き上げの条件を提示した{{sfn|Zubok|2007|p=145}}。フルシチョフは、キューバのミサイル撤去に当たっては、アメリカがキューバへ侵攻しないこと、ソ連中心部から至近にあるトルコに配備されているミサイルの撤去を引き換えとして、受諾した{{sfn|Taubman|2003|p=575}}。トルコのミサイル撤去については、アメリカ側の要請でフルシチョフ死去直前の1971年になって公になった{{sfn|Whitman|1971}}。この合意は、ソ連側にとっては、大きく譲歩であるとされ、2年後のフルシチョフの失脚へとつながった{{sfn|Whitman|1971}}。カストロは、フルシチョフに対して、キューバへの侵攻がみられた場合にはアメリカに対して、核兵器による先制攻撃を行なうよう促しており{{sfn|Zubok|2007|p=148}}、この合意については、怒りを感じ、フルシチョフに対して、口汚く言及していた{{sfn|Taubman|2003|p=579}}。
孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意した。後任にはブレジネフと[[アレクセイ・コスイギン]]がそれぞれ選ばれたが、これは、第二書記であったブレジネフと閣僚会議第一副議長であったコスイギンがそれぞれ昇格した暫定的な意味合いの濃い人事であった。
 
キューバ危機後、両国の関係は改善され、ケネディは1963年6月10日に、[[アメリカン大学]]で和解の演説をし、ソ連の人民が第二次世界大戦での被害を認識し、その業績をたたえた{{sfn|Kennedy|1963}}。フルシチョフは、この演説について、[[フランクリン・D・ルーズベルト]]以来の名演説であるとし、同年7月には、アメリカの交渉担当[[W・アヴェレル・ハリマン]]、イギリスの[[クィンティン・ホッグ|ヘールシャム卿]]と核実験禁止条約の交渉を行なった{{sfn|Taubman|2003|p=602}}。2度目のフルシチョフとケネディの交渉は、同年11月の[[ケネディ暗殺]]により頓挫した。ケネディを引き継いだ新大統領[[リンドン・ジョンソン]]は、今後も改善をしたいと考えていたが、ジョンソンは他の問題に手を取られ、フルシチョフが失脚する前に関係改善の機会はほとんどなかった{{sfn|Taubman|2003|pp=604–05}}。
フルシチョフ追放の黒幕であったシェレーピンとセミチャストヌイは、権力に対する野心が余りに露骨であったために疎まれ、党の指導部から外された。イグナトフは小者だったので無視された。フルシチョフと親しかったミコヤンも指導部から排除された。その結果、ブレジネフ、コスイギン、[[ニコライ・ポドゴルヌイ]]の[[トロイカ体制]]による長い停滞の時代が始まることになる。
 
==== 東欧について ====
フルシチョフが用いた「第一書記」の肩書きはブレジネフが最高指導者の地位を引き継いだ後も継続して用いられたが、この呼び名に対する党幹部の不満が噴出したため、[[1966年]]4月に開かれた第23回党大会でスターリン時代の名称である「書記長」の肩書きが復活した。
ポーランドの共産党指導者・[[ボレスワフ・ビェルト]]がスターリン批判の演説を読みながら心臓発作を起こして、死去したことも相まって、ポーランドとハンガリーでかなりの自由化運動を引き起こした。1956年6月、ポーランドでは、[[ポズナン]]で労働者のストライキが起こり、暴動へと発展し50人以上が死亡した{{sfn|Tompson|1995|pp=166–68}}。モスクワはこの暴動を西側の扇動者によるものであると非難したが、ポーランドの指導者はその指摘を無視し、労働者側に譲歩した。ポーランドでは、反ソ連的な態度を示すことが普通になり、ポーランド指導者の選挙が差し迫り、フルシチョフとその他の閣僚は、10月19日に[[ワルシャワ]]へと飛び、ポーランド議長団と面談した。ソ連側は、ソ連とポーランドの関係が変わらないことを確約したうえで、ポーランドの新指導者の就任を認めることに同意した{{sfn|Tompson|1995|pp=166–68}} <ref>{{Cite web|url=https://dziennikpolski24.pl/trzy-dni-pazdziernika/ar/2447598|title=Trzy dni października|date=19 October 2001|website=Dziennik Polski|access-date = 2024-07-15}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://histar.pl/2019/06/07/1956-sowieci-ida-na-warszawe/|title=1956: Sowieci idą na Warszawę!|first=Bartłomiej|last=Michalczyk|date=7 June 2019|access-date= 2024-07-15}}</ref>。その後、{{仮リンク|ポーランドの10月|en|Polish October}}として知られる、部分的な自由化の期間が続いた。
 
ポーランドの暴動の決着は、ハンガリー人を奮い立たせ、モスクワに対して反逆ができると決断させた{{sfn|Fursenko|2006|p=122}}。1956年10月23日、[[ブダペスト]]で、大規模なデモが起こり、民衆蜂起へと発展した。蜂起に対して、[[ハンガリー社会主義労働者党|ハンガリー勤労者党]]は、改革派の[[ナジ・イムレ]]を首相に任命した{{sfn|Tompson|1995|pp=168–70}}。ブダペスト市のソ連軍はハンガリー人と衝突し、デモ隊に対して発砲し、ハンガリー人とソ連双方合わせて数百人が死亡した。ナジは、停戦とソ連軍の即時撤退を要求し、フルシチョフらの大多数はこれに従うこととして、新ハンガリー政府に機会を与える選択肢を取った{{sfn|Fursenko|2006|pp=123–24}}。フルシチョフは、もしもモスクワが同盟国への対処方法で自由化を発表すれば、ナジは、ソ連との同盟を選択すると考えていた。
=== 年金生活と回想録 ===
引退後のフルシチョフは、公式には[[1966年]]まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、[[恩給]]と[[運転手]]つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有[[ダーチャ]](別荘)に住むことを強いられた。移動の制限は受けなかったが、ダーチャの至るところに[[盗聴器]]が仕掛けられており、生活は当局の[[監視]]下にあったため、事実上[[軟禁]]状態にあった。[[年金]]生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子の[[セルゲイ・フルシチョフ]]らがテープを[[タイプライター]]で[[テープ起こし|書き起こし]]た。[[アンドレイ・キリレンコ (政治家)|キリレンコ]]らソ連の指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求するが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な[[嫌がらせ]]を受けることになった。セルゲイは[[ミサイル]]の専門家であったが、転職を余儀無くされた。
 
10月30日、ナジは、複数政党の選挙を発表し、翌朝、ハンガリーが[[ワルシャワ条約機構]]の脱退を発表した{{sfn|Fursenko|2006|p=125}}。11月3日、ナジ政府の2人のメンバーがウクライナに臨時政府の首脳(自称)として姿を現し、ソ連介入を要求し、ソ連軍が間近に迫っていた。翌日、ソ連軍はハンガリー動乱を鎮圧し、4,000人のハンガリー人とソ連軍数百人が死亡した。ナジは逮捕され、処刑された。ソ連介入に関して国際的な批判があったにもかかわらず、フルシチョフは終生正当化した。ソ連の外交関係へのダメージは深刻であったが、タイミング的に[[第二次中東戦争]]と重なっていなかった場合、一層そのダメージは深刻であったはずである{{sfn|Tompson|1995|pp=168–70}}。
[[1970年]]7月にはフルシチョフの入院中に[[ソ連国家保安委員会|国家保安委員会]](KGB)が息子のセルゲイを騙して回想原稿とテープを押収することに成功するが、テープと原稿のコピーは既にアメリカの[[タイム (雑誌)|タイム]]社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに[[報復]]した。なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除(取り引き)に応じたという噂がある。この噂が真実かと問われたセルゲイは「その質問の重要性は理解するが、いかんともしがたい事情から、それに答えることはできない」と述べている<ref>セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』。</ref>。
 
ハンガリー動乱の最中、フルシチョフは、「[[あんたらを葬ってやる]]」という名言でよく知られるようになった。西側諸国はこの発言を文字通りの脅迫と受け止めたが、フルシチョフは、西側諸国と平和共存に関しての演説時に、この発言をした{{sfn|Taubman|2003|pp=427–28}}。1959年の訪米の際に、この発言について問われた時、フルシチョフは、文字通りの埋葬ではなく、避けられない歴的発展を通じて、共産主義は資本主義に取って代わり「埋葬」するのだと述べた{{sfn|Carlson|2009|p=96}}。
回想録が西側で出版されると、激怒したソ連の指導部はフルシチョフに新聞の[[プラウダ]]紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。実際のところタイム社は、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないか非常に気を揉んでおり、そのため同社はフルシチョフの回想を録音したテープの[[声紋]]分析を徹底して行っており、少しでもテープが途切れた部分はその都度鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。
 
フルシチョフは、1948年にスターリンが[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]を制御できないと悟ったことで、完全に関係を絶っていた[[ユーゴスラヴィア]]との関係改善に大きく寄与した。フルシチョフは、1955年、ソ連の代表団を率いて[[ベオグラード]]に行った。敵意を抱いていたチトーは、ソ連が愚かであることを示すためにあらゆる手段を講じたが(公衆の面前で泥酔させるなど)、フルシチョフは、ソ連とユーゴスラヴィアの没交渉であった関係改善に成功した{{sfn|Tompson|1995|pp=145–47}}。ハンガリー動乱時は、チトーは当初ナジを支援していたが、フルシチョフがハンガリー動乱の介入の必要性を説いた{{sfn|Tompson|1995|pp=145–47}}。それでも、ハンガリー情勢の介入は、モスクワとベオグラードの関係に亀裂が入り、フルシチョフは数年かけて関係修復に努めた。
=== 死去と記念碑 ===
フルシチョフは、中国がユーゴスラヴィアの[[社会改良主義]]を承認せず、ベオグラードを和解させようとする試みが北京を怒らせる結果になった事実が、フルシチョフの行動を妨げた{{sfn|Tompson|1995|p=189}}。
 
==== 中国について ====
1949年に中国本土を掌握した[[毛沢東]]は、ソ連から物質的援助を求め、[[ロシア帝国]]時代に奪われた領土の返還を要求した{{sfn|Whitman|1971}}。フルシチョフがソ連の権力を掌握すると、中国への援助を増やし、新しい共産主義国家の発展の支援のために、少数の専門家を派遣した{{sfn|Taubman|2003|p=336}}。この援助は、歴史家{{仮リンク|ウィリアム・C・カーヴィー|en|William C. Kirby}}によって、「世界史市場最大の技術移転」と評された{{sfn|Taubman|2003|p=337}}。ソ連は[[国民所得]]の7%を1954年から1959年まで中国の支援に投じていた{{sfn|Zubok|2007|p=111}}。1954年、フルシチョフは中国に訪問し、フルシチョフは[[旅順港]]と[[大連市|大連]]を中国に返還することに同意したが、毛沢東は、ソ連が撤退する際、ソ連の大砲を残して撤退するようにという主張に対して、フルシチョフは腹を立てた{{sfn|Taubman|2003|pp=336–37}}。
 
1949年に中国本土を掌握した[[毛沢東]]は、ソ連から物質的援助を求め、[[ロシア帝国]]時代に奪われた領土の返還を要求した{{sfn|Whitman|1971}}。フルシチョフがソ連の権力を掌握すると、中国への援助を増やし、新しい共産主義国家の発展の支援のために、少数の専門家を派遣した{{sfn|Taubman|2003|p=336}}。この援助は、歴史家ウィリアム・C・カーヴィーによって、「世界史市場最大の技術移転」と評された{{sfn|Taubman|2003|p=337}}。ソ連は[[国民所得]]の7%を1954年から1959年まで中国の支援に投じていた{{sfn|Zubok|2007|p=111}}。1954年、フルシチョフは中国に訪問し、フルシチョフは[[旅順港]]と[[大連市|大連]]を中国に返還することに同意したが、毛沢東は、ソ連が撤退する際、ソ連の大砲を残して撤退するようにという主張に対して、フルシチョフは腹を立てた{{sfn|Taubman|2003|pp=336–37}}。
 
中ソ両国の関係は1956年に冷え込み始め、毛沢東はスターリン批判と、スターリン批判に関する演説を事前に相談されていなかったということに怒りを感じていた{{sfn|Taubman|2003|p=338}}。毛沢東は、脱スターリン化は誤りであると信じており、自身の権力基盤に揺らぎが生じる可能性があると考えていた{{sfn|Zubok|2007|p=136}}。1958年、フルシチョフが[[北京市|北京]]を訪問した際、毛沢東は、軍事協力の提案を拒絶した{{sfn|Taubman|2003|p=391}}。毛沢東は、フルシチョフのデタントに向けた活動を妨害すべく、[[金門砲戦|第2次台湾海峡危機]]を引き起こし、同危機で砲撃された台湾の島々を「アイゼンハワーとフルシチョフを躍らせ、あちこちへと走り回らせるバトンのようなもので、どれだけ素晴らしいものなのかがわからないのか?」と描写した{{sfn|Taubman|2003|p=392}}。
 
ソ連は中国に対して、文書が完全に揃った状態で原子力爆弾を提供するつもりであったが、1959年に、中ソの関係が冷え込んだため、ソ連は装置と文書を破棄してしまった{{sfn|Zubok|2007|p=137}}。フルシチョフが1959年9月に訪中した際には、成功裏に終わった訪米の直後であったため、中国からは冷ややかな接待を受け、フルシチョフは、当初7日間の滞在予定を3日で切り上げて中国を後にした{{sfn|Taubman|2003|p=394}}。1960年にも中ソはルーマニア共産党党大会をお互いに攻撃する機会として利用したため、中ソ関係は悪化した。フルシチョフは、党大会の演説で中国を攻撃すると、中国側の指導者であった[[彭真]]は、フルシチョフをあざ笑い、ソ連の外交方針は、西側に熱風と冷風を吹かせていると述べた。フルシチョフは、中国からソ連の専門家達を引き上げることで応酬した{{sfn|Taubman|2003|pp=470–71}}。毛沢東とフルシチョフの論争は、[[アルバニア]]は中国側につき、フルシチョフをアルバニア人の反共の農民に喩えて、「ラポ・レロ」と呼んだ<ref>{{Cite book|last=Hoxha|first=Enver|title=Albania Challenges Khrushchev Revisionism|publisher=Gamma Publishing Co.|year=1976|location=New York|pages=119}}</ref>。
 
==== 西アフリカについて ====
フルシチョフ政権下で、ソ連は新たに独立した西アフリカの[[ガーナ]]と[[ギニア]]に対して、多額の援助を行なった。ガーナとギニアは、[[エジプト]]や[[インドネシア]]といった[[第三世界]]の大国とは対照的に、ソ連との経済協力に依存しており、「社会主義的発展モデル」を検証するのに理想的な国と見なされていた。このプロジェクトは、大失敗に終わったものの、フルシチョフ政権下では、その後数十年のソ連による対アフリカの外交政策に重要な影響を与えることになる。さらに、[[コンゴ動乱]]におけるソ連の不手際は、新たに成立した[[コンゴ共和国]]の情勢が悪化することと西側諸国による大規模な軍事介入を防ぐことができず、ソ連とガーナとギニアの関係が冷え込むこととなった<ref>{{cite journal |last1=Iandolo |first1=Alessandro |date=14 May 2012 |title=The rise and fall of the 'Soviet Model of Development' in West Africa, 1957–64 |url=https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/14682745.2011.649255 |journal=[[Cold War History (journal)|Cold War History]] |volume=12 |issue=4 |pages=683–704 |doi=10.1080/14682745.2011.649255 |s2cid=154159207 |access-date=19 March 2023}}</ref>。
 
=== 失脚へ ===
1964年3月から、ソ連最高会議議長で、名目上の国家元首であった[[レオニード・ブレジネフ]]は有志と共に、フルシチョフ失脚に向けて、計画をし始めた{{sfn|Taubman|2003|p=615}}。ブレジネフは、6月の[[スカンディナヴィア]]旅行から帰ってきた際に、フルシチョフを逮捕することを検討したが、ブレジネフは、フルシチョフが反党グループの陰謀を阻止するために、如何に中央委員会のサポートを重視していたかを思い出し、フルシチョフ追放の支持を得るために、中央委員会の委員を説得することに時間を費やした{{sfn|Taubman|2003|p=615}}。1964年1月から9月までの内、合計5か月間、フルシチョフがモスクワを離れる期間があったため、ブレジネフは、フルシチョフ失脚に向けて十分な時間が与えられた{{sfn|Taubman|2003|p=617}}。
 
ブレジネフを筆頭としたフルシチョフ失脚支持派は、[[アレクサンドル・シェレーピン]] ソ連閣僚会議副議長、[[ウラジーミル・セミチャストヌイ]] [[ソ連国家保安委員会|KGB]]議長らがおり、1964年10月、フルシチョフが、友人でソ連閣僚会議の同志でもある[[アナスタス・ミコヤン]]と[[アブハズ自治ソビエト社会主義共和国]]のピツンダでの休暇中に、フルシチョフ失脚事件を起こした。10月12日、ブレジネフは、フルシチョフに対して、翌日、(表向きは)農業を議題とした臨時閣僚会議を開催する意向であると電話した{{sfn|Taubman|2003|p=5}}。フルシチョフは閣僚会議の真の目的に疑念を抱いていたにもかかわらず{{sfn|Taubman|2003|p=6}}、彼は[[ジョージア (国)|グルジア]]のKGB議長の{{仮リンク|アレクシ・イナウリ|en|Aleksi Inauri}}将軍と共にモスクワへと行き、イナウリ将軍以外に予防措置はとっていなかった{{sfn|Taubman|2003|pp=11–13}}。
 
フルシチョフは、[[ヴヌーコヴォ国際空港|ヴヌーコヴォ空港]]のVIPホールへと到着した。KGBのセミチャストヌイ議長は、KGBの護衛に囲まれて、フルシチョフを待っていた。セミチャストヌイは、フルシチョフに、追放を告げ、抵抗を呼びかけた。フルシチョフは抵抗せず、クーデターは順調に進展した。フルシチョフはセミチャストヌイを友人であり、フルシチョフ派であると考えており、党内の反フルシチョフ派に加わったとは露ほども疑わず、セミチャストヌイに裏切られたと感じていた<ref>{{Cite news |url=https://www.economist.com/obituary/2001/01/18/vladimir-semichastny |title=Vladimir Semichastny |newspaper=[[The Economist|economist.com]] |date=18 January 2001 |access-date=8 October 2022}}</ref>。そして、フルシチョフはクレムリンへと連行され、ブレジネフ、[[ミハイル・スースロフ|スースロフ]]、[[アレクサンドル・シェレーピン]]から、口撃を受けた。フルシチョフは戦う腹積もりはなく、ほとんど抵抗しなかった。セミチャストヌイは対外的にクーデターであると思われないように注意を払っていた。
 
<blockquote>
私(セミチャストヌイ)はクレムリンを立ち入り禁止にしなかった。人々は外を歩き回っていたが、閣僚会議の会議室では、会議が行われていた。私は、クレムリン周辺に部下を配置した。必要なことは全て対応した。ブレジネフとシェレーピンは緊張していた。私は、彼らに「必要のないことはしないでほしい。これがクーデターであると思われてはならない」と言った<ref>Mccauley, Martin (1995) ''The Khrushchev Era 1953–1964''. Longman. p. 81. {{ISBN|9780582277762}}</ref>。
</blockquote>
 
その夜、フルシチョフは追放された後に、ミコヤンに電話をかけ、こう言った。
 
<blockquote>
私は年も取り、疲れてしまっている。彼らには彼らで対応してもらおう。私は主なことはやった。スターリンは我々には適切な人物でないと告げて、引退を勧めるということが、想像できた者がいただろうか?我々が立っていた場所には、濡れた痕跡さえなかっただろう。今では全てが変わってしまった。恐怖は消え去り、対等に話すことができる。それが私の貢献である。私は抵抗しない{{sfn|Taubman|2003|p = 13}}。
</blockquote>
 
1964年10月14日、ソ連最高会議幹部会と中央委員会は、フルシチョフからの、高齢と健康状態を理由とした「自発的な」辞任要求を承認した。ブレジネフは、第一書記(後に書記長)に選出され、アレクセイ・コスイギンがフルシチョフの後を継いで首相に就任した{{sfn|Taubman|2003|p = 16}}<ref>{{cite encyclopedia|url=https://www.britannica.com/EBchecked/topic/316972/Nikita-Sergeyevich-Khrushchev|title=Nikita Sergeyevich Khrushchev|encyclopedia=Encyclopædia Britannica|date=16 August 2023 }}</ref>。
 
=== 失脚後 ===
フルシチョフは毎月500ルーブルの年金と家、別荘(ダーチャ)、自動車を与えられた{{sfn|Taubman|2003|pp=16–17}}。フルシチョフは退任後、深い抑うつ状態に陥った。フルシチョフは、警備員が全訪問者とその出入りを記録したため、来客を拒んでいた{{sfn|Taubman|2003|pp=622–23}}。年金は月400ルーブルに減額されたが、フルシチョフの引退生活はソ連の水準では快適なものであった{{sfn|Tompson|1995|p=278}}{{sfn|Taubman|2003|p=623}}。フルシチョフの孫の一人が、元首相が退任後に何をしているのかを尋ねられた時、孫は「おじいちゃんは泣いている」と答えた{{sfn|Taubman|2003|pp=623–24}}。30巻構成の[[ソビエト大百科事典]]では、第二次世界大戦中の著名な政治将校のリストから、フルシチョフの名前が省かれるなど、存在がなかったことにされた{{sfn|Whitman|1971}}。
 
新しい権力者が、芸術面での保守主義を公言するなどするにつれて、フルシチョフは、芸術家や作家からは、幾分か好意を抱かれるようになり、彼らの何人かはフルシチョフのもとを訪れた。フルシチョフと対面を果たせずに後悔した訪問者の一人は、当時、大統領選挙で落選し、不遇の時代をおくっていたニクソン元アメリカ副大統領がおり、ニクソンはフルシチョフが別荘にいた時に、フルシチョフのモスクワのアパートを訪れていた{{sfn|Tompson|1995|p=279}}
 
フルシチョフは1966年に回想録を執筆し始めた。当初、KGBによる盗聴を避けるため、屋外でテープレコーダーによって口述筆記をしようとした。しかし、屋外の騒音がひどく、うまくいかず、結局室内での録音に切り替えた。フルシチョフは、1968年に口述筆記の録音テープの引き渡しを命じられるまで、KGBは干渉しようとしなかったが、フルシチョフは、テープの引き渡しを拒否した{{sfn|Tompson|1995|p=280}}。フルシチョフが心臓の行機で入院している間、1970年7月、フルシチョフの息子・[[セルゲイ・フルシチョフ]]は、KGBから、海外の諜報員によって回想録を盗み出そうとする計画が進行中であると告げられた<ref>{{Cite journal|last=Wehner|first=Markus|date=1996|title=Chruschtschows letzter Kampf: Der ehemalige Parteiführer vor dem Kontrollkomitee der KPdSU|url=https://www.jstor.org/stable/44919697|journal=Osteuropa|volume=46|issue=7|pages=A325–A333|jstor=44919697|issn=0030-6428|via=[[JSTOR]]}}</ref>。セルゲイは、KGBがどのみち原本を読むことができたため、資料をKGBに引き渡したが、コピーの一部は、西側の出版社へと渡っていた。セルゲイは、密輸したフルシチョフの回想録の出版を指示し、1970年にフルシチョフの回想録は日の目を見ることとなった。フルシチョフは、何らかの圧力によって、自身がいかなる文書も出版社へと引き渡していないという文書に署名させられ、セルゲイは、閑職へと追いやられた{{sfn|Tompson|1995|pp=280–81}}。西側でフルシチョフの回想録が出版されると、[[イズベスチヤ|イズベスチヤ紙]] は、回想録は欺瞞であると断じた{{sfn|Shabad|1970}}。ソ連国営ラジオは、フルシチョフの声明を発表したが、同ラジオにてフルシチョフが言及されるのは実に6年ぶりのことであった{{sfn|Whitman|1971}} 。「ソ連大百科事典」では、フルシチョフの人物像が簡単に記載されていた。「フルシチョフは指導者として、主観主義と自発主義の兆候があった」<ref>{{Cite book| title = The Great Soviet Encyclopedia| edition = 3rd| year = 1970–1979| publisher = The Gale Group, Inc.| chapter = Khrushchev, Nikita| via = TheFreeDictionary.com| access-date = 24 August 2022| chapter-url = https://encyclopedia2.thefreedictionary.com/Khrushchev%2c+Nikita}}</ref>。
 
フルシチョフは晩年、義理の息子で、元補佐官を務めていた{{仮リンク|アレクセイ・アジュベイ|en|Aleksei Adzhubei}}を訪ね<ref>{{Cite web|url=https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-alexei-adzhubei-1499406.html |archive-url=https://ghostarchive.org/archive/20220621/https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-alexei-adzhubei-1499406.html |archive-date=21 June 2022 |url-access=subscription |url-status=live|title=Obituary: Alexei Adzhubei|date=18 September 2011|website=The Independent|access-date = 2024-07-15}}</ref>、こう述べた。「嵐のような時代を生き、中央委員会で私と働いたことを決して後悔せぬように。我々はこれからも記憶に残るであろう!」{{sfn|Tompson|1995|p=281}}。
 
=== 死去 ===
[[File:Tombe de Nikita KROUTCHEV.JPG|thumb|フルシチョフの記念碑]]
フルシチョフは1971年9月11日正午頃、{{仮リンク|モスクワ中央臨床病院|en|Moscow Central Clinical Hospital}}で心臓発作のため死去、77歳だった。[[クレムリンの壁墓所]]に埋葬されるという国葬は拒否され、代わりにモスクワにある[[ノヴォデヴィチ女子修道院#ノヴォデヴィチ墓地|ノヴォデヴィチ墓地]]に埋葬された。デモを恐れた当局は、モスクワ南部郊外の死体安置所で行われる通夜までフルシチョフの死去は伏せられ<ref>{{cite news|url=https://www.reuters.com/world/honour-or-disgrace-how-russia-has-buried-its-past-leaders-2022-09-02/|title=Factbox: Honour or disgrace – how Russia has buried its past leaders|first=Mark|last=Trevelyan|publisher=Reuter|date=2 September 2022|accessdate=1 May 2023}}</ref>、墓地を軍隊で包囲した。それでも、何人かの芸術家と作家は墓前の埋葬のために、フルシチョフの遺族と共に加わった{{sfn|Tompson|1995|pp=282–83}}。
7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日に[[モスクワ]]の病院で死去した。しかし歴代の要人が埋葬されている[[赤の広場]]脇には埋葬されず、モスクワにある[[ノヴォデヴィチ修道院]]の墓地に埋葬された。
 
プラウダ紙は、前首相の死去を一文で報道した。一方西側諸国の新聞の報道は過熱した{{sfn|Carlson|2009|p=299}}。[[ニューヨーク・タイムズ]]のベテラン特派員{{仮リンク|ハリー・シュワルツ|en|Harry Schwartz (journalist)}}は、フルシチョフについて、次のように記載した。「フルシチョフ氏は、石化した建物のドアと窓を開放した。フルシチョフ氏は、新鮮な空気と新鮮なアイディアを取り入れ、時がたてば取り返しのつかない根本的な変化をもたらしてくれた」{{sfn|Schwartz|1971}}。
 
=== 死去後の扱いや評価 ===
フルシチョフが行なった刷新策の多くは、フルシチョフ死去後には無かったことにされた。選挙ごとに3分の1の閣僚を交代させるという要件は覆され、党組織と工業部門と農業部門に分けることも撤回されてしまった。高校生のための職業訓練プログラムも中止され、既存の農業施設を郊外へと移転する計画も中止された。しかし、新しい農業機関や職業教育訓練施設は、主要都市の郊外に設置された。新しい住宅が建設された場合、その多くは、フルシチョフ考案の低層建築方式ではなく、エレベーターやバルコニーがない高層建築であった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=180–82}}。
歴史家のロバート・サービスは、フルシチョフの複雑な性格を要約している。
 
<blockquote>
(前略)(フルシチョフは)スターリン主義者でもあり反スターリン主義者でもあった。共産主義の信奉者であったと同時に皮肉屋でもあり、自己顕示欲の強い臆病者であると同時に頑固な慈善家でもあった。トラブルメーカーでもあったが、一方で平和主義者でもあった。快活であったが、同時に威張り散らすところもあったし、政治家であると同時に知性が欠けてもいた<ref>Service, Robert (1997) ''A History of Twentieth-Century Russia''. Harvard UP. p. 375. {{ISBN|9780713991482}}.</ref>
</blockquote>
 
フルシチョフの農業計画も簡単に覆された。1965年にはトウモロコシは不人気の作物となり、ウクライナやソ連南部においてトウモロコシ栽培がうまく行っていたコルホーズでさえも、トウモロコシの作付けを拒否したため、同年は戦後最低水準の収穫高を記録した{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=128}}。[[トロフィム・ルイセンコ]]も政策立案の責任者の地位をはく奪された。しかし、トラクター機械ステーションは閉鎖されたままであり、フルシチョフが取り組もうとしていた基本的な農業問題は残ったままであった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=180–82}}。フルシチョフ失脚後の10年間のソ連の生活水準は大きく向上したが、その大部分は、工業の進歩によるものであった。つまり、農業の方は停滞し続け、1972年と1975年には、農業危機に陥った{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=185}}。ブレジネフとその後継者達は、食糧不足や飢餓に苦しむよりも西側から穀物を仕入れるという、フルシチョフ時代の前例を踏襲した{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|pp=180–82}}。ブレジネフもその一派も人気がなく、新政権は、政権の存在を保証するために独裁的な統治に依存していた。KGBと軍隊はますます大きな権力を与えられた。政府の保守的傾向が1968年の[[プラハの春]]の鎮圧へとつながった{{sfn|Medvedev|Medvedev|1978|p=184}}。
 
フルシチョフの戦略は、フルシチョフが求めていた主要目標を達成できなかったが、フルシチョフの外交・軍事政策についての本を執筆した[[アレクサンドル・フルセンコ]]は、フルシチョフの戦略は、西側諸国を限定的な方法で、強制したとしている。アメリカがキューバ侵攻をしないという合意は順守されていた。西側諸国の東ドイツ非承認については、徐々に融和され、1975年に、アメリカとその他のNATO加盟国は、ソ連及び東ドイツを含む[[ワルシャワ条約機構]]加盟諸国と[[ヘルシンキ協定]]に署名し、ヨーロッパの人権基準を定めた{{sfn|Fursenko|2006|p=544}}。
当局との数年に渡る戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家[[エルンスト・ネイズヴェスヌイ]]だった。記念碑の黒と白のデザインは様々な憶測を呼んだが<ref group="注釈">白がフルシチョフで黒がブレジネフだとする説(そうした憶測からフルシチョフの遺族は長年記念碑の建立を許されなかった)、白がフルシチョフ政治の良かったこと・黒が悪かったこととする説など様々なものがある。</ref>、ネイズヴェスヌイはセルゲイ・フルシチョフに「白と黒の組み合わせは、統一と死に抗する生の戦いとを象徴する」と述べている。ネイズヴェスヌイはこの記念碑の仕事を引き受けたことが主として災いし、ブレジネフ政権下で様々な迫害をうけることとなり、[[1976年]]に[[スイス]]への[[亡命]]を余儀無くされた。
 
ロシアにおいての、フルシチョフへの評価は賛否分かれている{{sfn|Taubman|2003|p=650}}。ロシアの大手世論調査会社によると、21世紀現在のロシア人がロシアの20世紀を肯定的に評価している政権は、[[ニコライ2世]]の時代とフルシチョフの時代だけである{{sfn|Taubman|2003|p=650}}。1998年時点でのロシアの若者を対象とした調査によると、ニコライ2世は、損害よりも有益をもたらしたと感じており、フルシチョフを除いて、20世紀のロシアの指導者は有益よりも損害をもたらしたとし、フルシチョフについては好悪半々という評価だった。フルシチョフの伝記作家ウィリアム・トンプソンは、フルシチョフの改革とその後の改革を次のように関連付けている。
[[1984年]]に死去したフルシチョフの妻であるニーナ・ペトロブナも、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの隣で眠っている。なお[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]した後もフルシチョフの遺体は赤の広場に移されず、ノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬されたままである。
 
<blockquote>
== 家族 ==
ブレジネフ政権時代とその後の長い空白期間を通じて、1950年代の「最初のロシアの春」に成人した世代が権力の座に就くのを待ちわびていた。ブレジネフとその一派が死去、あるいは年金生活に入ると、スターリン批判と脱スターリン化を経験した世代が彼らの代わりとなり、「第20回大会の子供たち」がミハイル・ゴルバチョフとその一派が権力の座に就いた。フルシチョフ時代は、この第2世代に対してインスピレーションを付与し、反面教師ともなった{{sfn|Tompson|1995|pp=283–84}}。
*[[1914年]]に最初の妻となるエフロシーニャ・ピサレワと結婚した。エフロシーニャは[[ロシア内戦]]の最中の[[1921年]]に飢餓・衰弱・チフスが重なって亡くなる。2人の間には娘のユリヤ([[1915年]] - [[1918年]])と息子の[[レオニード・フルシチョフ|レオニード]]([[1917年]] - [[1943年]])がいた。
</blockquote>
*[[1922年]]にマルシアという名前の17歳の女性と再婚するが、すぐに離婚する。
*[[1924年]]に3度目の妻となる[[ニーナ・ペトロブナ・フルシチョワ|ニーナ・ペトロブナ・クハルチュク]]と結婚した。ただし、正式な届け出はせず長らく[[事実婚]]の状態であり、この期間にフルシチョフがソ連の最高指導者となったことから、クハルチュクは[[ソビエト連邦のファーストレディ|ファーストレディ]]として活動した。フルシチョフ失脚後の1965年に正式に結婚した。2人の間には、息子の[[セルゲイ・フルシチョフ|セルゲイ]]([[1935年]] - [[2020年]])、娘の{{仮リンク|ラーダ・フルシチョワ|label=ラーダ|ru|Аджубей, Рада Никитична}}([[1929年]] - [[2016年]])とエレーナ([[1937年]] - [[1972年]])がいる。
*[[ニューヨーク]]で大学教授を務める[[ニーナ・フルシチョワ (学者)|ニーナ・フルシチョワ]]は曾孫である{{Sfn |ニューズウィーク2022年12月6日-2023年1月3日|p=18}}。ニーナ・フルシチョワの母のユリアはレオニードの娘で、1943年にレオニードが戦死したときは2歳だったが、フルシチョフが養子として引き取った。
 
== 逸話 ==
* 回想録を出版したアメリカのタイム社は、軟禁状態にあったフルシチョフと接触するのに、仲介者を通さなければならなかった。回想録がフルシチョフ本人が書いたものであることの確かな証拠が欲しいタイム社は、真っ赤な帽子を仲介者に預け、フルシチョフ本人がその帽子をかぶっている写真を撮影して送るようにと依頼した。帽子を届けられたフルシチョフは、その帽子が贈られた意図を知ると発案者のウイットに敬服し、事情を知らない家族が反対する中、進んでその派手な帽子をかぶって写真撮影にのぞみ、家族の反対を煽ってむしろ面白がっていたという。
* フルシチョフは権力の座にあったとき、ろくに仕事をせず部下にほとんど丸投げの状態だったという。訪仏の際[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]と船遊びを楽しんでいた際、「あなたは一体いつ仕事をしているのか? ソ連政府の発表ではあなたの予定はほとんど国内外の旅行や会見だ。一体いつ書類に目を通しているのですか?」と尋ねると、「私は働きませんよ。わが党の規約では65歳以上の者は1日6時間、週4日働けば良いと定めています。私は66歳ですから旅行や会見で十分なのです。政務は全て国家計画があらかじめ決定しています」と答え、ド・ゴールを唖然とさせた。ただし息子のセルゲイによる回想録では、フルシチョフは秘書官による頻繁なブリーフィング・[[タス通信]]の新聞記事の要約を読ませたりする・上映中止処分を受けた映画を自分の目で直接見たりする様子が描かれている。また、フルシチョフは殆ど全てを自分で決定しないと気が済まなかったことが主意主義や主観主義だと批判されており、こうしたイメージは、「仕事を丸投げにしていた」というイメージとは必ずしも一致しない。
* 失脚後、党中央委員会に呼び出されて回想録の執筆中止を求められたフルシチョフは、その命令に激怒して怒りを爆発させた上に、ブレジネフ指導部の政治をこき下ろす大演説をはじめた。さらに、ダーチャの至るところに[[盗聴器]]が仕掛けられていることを「[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1936年)|憲法違反]]」と指摘したうえで「便所にまで盗聴器を仕掛けるとはな! 君らは国民の[[税金]]を使ってワシが屁をするのを盗み聞きしておるんだぞ!」と怒鳴りつけた。
* フルシチョフの時代はスターリン時代よりは物流や学術の交流といった点で開放的だったとする見方もある<ref>{{Cite web|和書|url =https://www.waseda.jp/prj-edu-foreign/russian/kawasaki/kougi201.htm |title =「現代社会文化論」講義録ペレストロイカと文化 (1)  |publisher =www.waseda.jp |date =2018-10-12 |accessdate =2018-10-12 }}</ref>。
*[[2021年]]に入り、かつて[[中央情報局|アメリカ中央情報局]]([[CIA]])長官を務めた[[ジェームズ・ウールジー]]([[:en:James Woolsey]])が出版した著書によれば、[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]を暗殺した[[リー・ハーベイ・オズワルド]]がフルシチョフから暗殺指令を直接受けていたとする新説を発表している<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20210226-FAYQZFCZ3FPLJET6PCROD5HMNU/|title=ケネディ暗殺はフルシチョフが指令? 元CIA長官が著書で新説|newspaper=産経新聞|date=2021-02-26|accessdate=2023-08-28}}</ref>。
226 ⟶ 419行目:
}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
 
{{refbegin}}
=== 書籍・雑誌・その他の印刷物 ===
568 ⟶ 760行目:
 
{{ソビエト連邦の首相}}
{{パーソン・オブ・ザ・イヤー|state=expanded|state2=expanded}}
{{ソビエト連邦共産党書記長}}
{{パーソン・オブ・ザ・イヤー|state=expanded|state2=expanded}}
{{Normdaten}}