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姉の1人が、日本女子大学校の創立者である[[成瀬仁蔵]]を尊敬し、成瀬の著書を愛読していたこと、同大学校が卒業生の会「桜楓会」を日本国外にも置くほど規模の大きい学校であることから、姉の勧めもあって、日本女子大学校への進学を志願した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p232}}。女学校を卒業後に上京し、日本女子大学校へ進学した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156}}。
 
1933年(昭和8年)から、[[丹下梅子]]の指導のもとで卒業論文のために米の糊化温度に関する研究に着手した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156}}。米の糊化温度水、パラフィン、油、濃硫酸などを用いた二重鍋関する研究の末に、米の糊化温度を見出すことに成功した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156}}。これは、後年に開発される電気炊飯器の原理に繋がるものである{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156}}。翌1934年(昭和9年)、日本女子大学校家政学部第二類を卒業した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p156}}。
 
=== 日本女子大学校に勤務 ===
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キヨはこの中国訪問を通じて、男女共同参画の実現や人間尊重の科学技術の発展などを強く感じ取った{{R|日本女子大学総合研究所紀要20051101_p38}}。また、当時は日本でも[[公害]]が大きな社会問題となっていたことで、中国での公害対策の取組にも強い関心を示した{{R|日本女子大学総合研究所紀要20051101_p38}}。キヨはそれ以前から[[環境問題]]に興味を持ち、1970年代に環境調査に関する冊子を出していたほどで、この中国訪問を通じてさらに平和への関心が高まったと見られている{{R|日本女子大学総合研究所紀要20051101_p38}}。
 
1968年(昭和43年)より、[[婦人国際平和自由連盟]](Women's International League for Peace and Freedom、以下WILPFと略)の会計員、1971年(昭和46年)には同副会長、1973年(昭和48年)から1981年(昭和56年)までは同日本支部会長を務めた{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p164}}。WILPFの国際総会が[[デンマーク]]で開催された際には、キヨは総会に出席し、さらに[[ヨーロッパ]]の10か国を訪れて、平和と自由の基礎を築くための努力、人種を超えて手を結び、戦争の無い世界を世界を作るこらなければならない痛感した{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p164}}。
 
帰国後の1973年(昭和48年)、WILPFの日本支部会長となった{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p166|月刊婦人展望19730710_p3}}。1977年(昭和52年)には、WILPFの第20回国際総会が東京で開催されるにあたって、準備委員長を務め、これを成功させた{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p166}}。この総会を通じてキヨは、平和教育の徹底の大切さ、平和の樹立が[[反核運動|核兵器廃絶]]に繋がることを感じとり、人類の破滅と地球の破壊を防ぐため、婦人の力を結集するとの考えに至った{{R|世界の児童と母性19770401_p55}}。また、この東京での開催が縁となり、アメリカでの第21回では、キヨが送った広島の「平和の鐘」のテープが流れた{{R|女子理学教育をリードした女性科学者たち_p166}}。