「ゲオルギイ・グルジエフ」の版間の差分

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そのうち、グルジエフが主として1916年にサンクト・ペテルスブルグで説いた体系的な人間論・宇宙論および具体的な取り組みに関することが、のちに離反したP・D・ウスペンスキーを通じて、とりわけ広く一般に知られるように至った。それによって一般に広まったグルジエフに由来する言葉として、「ワーク」(work on oneself)、「自己想起」(self-remembering)、「センター」(centers)、「存在と知識」(being and knowledge)、「本質と人格」(essence and personality)、「同一化」(identifying)、「超努力/余分な努力」(super-effort)などがある。また、エニアグラムの図像、およびこれに結び付いた「三の法則」と「七の法則」をめぐる理論のおおまかな枠組みも知られるに至った。
 
しかし、これらの言葉の使い方や解釈をめぐり、グルジエフとP・D・ウスペンスキーの間にはかなりの違いがあることが、グルジエフの著書および講話録の内容からうかがわれる。1924年7月の自動車事故からの回復、グルジエフはAll and Everythingと題された三部作の執筆を開始し、その伝えるところは以前から一貫したものであっても、そこでグルジエフが使った言葉や叙述のスタイルは、かつてと大きく異なっている。比較的にわかりやすい語りから始まるベルゼバブの物語は、人間の成り立ちとその宇宙的な背景をめぐる、やや難解な印象を与えつつも、核心に迫った話へと発展していく。グルジエフの思想が西洋に広まる過程では、一見して取っつきにくいグルジエフの主張や見解をもっと一般に受け入れられやすい体裁にまとめなおそうとする動きが生じたが、グルジエフはこれを支援せず、自らの著書においては、独自の語彙と形式をもってこれを記述した。
 
歴史的な経緯として、グルジエフに由来する思想の広まりで大きな役割を果たしたのはウスペンスキーだが、1921年ごろから、グルジエフを離れ、グルジエフから学んだ知識を基に自ら教えるようになった。また、グルジエフに由来する思想をアメリカに広めるうえで大きな役割を果たしたA・R・オラージュは1934年に急逝したが、C・ダリー・キングをはじめとする生徒たちの一派は、自分たちがオラージュを通じて学んだグルジエフの教えだけが本物であり、その後のグルジエフは認めないという姿勢をとった。そのため、一般に「グルジエフ/ウスペンスキー思想」として知られているものと、グルジエフ自身の著作と講義録が伝えるものとの間には、隔たりがある。