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日本では方言という語は標準語とは異なる地方ごとの語彙や言い回しなどを指して使う場合も多いが、この様な語彙の事は「[[俚言]]」(りげん)といい、方言の一構成要素である。日本語の各方言はもっぱら口頭の表現に使われ、文字に書き表わされることは、[[方言詩]]や民話集などの例を除けば、非常に少ない。
 
=== 日本の方言に対する政策 ===
[[明治]]時代以降、日本では標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃するような政策がとられてきた。これに加えて、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により、現在ではその土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っている。特に若者の間でその傾向が著しい。方言アクセントは若者においても比較的保持されているが、語彙のレベルでは世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にある。
 
=== 方言における特徴 ===
[[江戸時代]]における薩摩方言のように、ある特定の人物が、現地ないしはその方言圏の範囲内に住む者か、よそ者か(特に、江戸からの隠密に対して)を見分けるための指標として、あえて方言を変化させず意図的に保ち続けた。という例はまれではあるが、前述のとおり、中央集権化が強まった場合や、政策上の理由で統一された言語を公用語、あるいは共通語などに指定される場合などは、方言独自の語彙やアクセントは、世代と共に均一化されていく傾向にある。
 
特に現在の我が国日本では、東京中心で全国に向けて送信、又は、配給される、テレビやラジオの番組、映画などによって、年代特有の言い回しは方言ではないので別としても、方言が駆逐され、共通語(現在の日本には、一般にいうような厳密な意味での「標準語」は存在しない。)に統一される傾向にある。ただし、現在のこの傾向が、必ずしも政治的な意図の元で行われているとはいえない。
 
民族や遺伝子的観点に於いては、沖縄県人とアイヌ人は近いとはいわれているが、前述のとおり、沖縄県の各方言は、日本語の方言ともいえるが、アイヌ語は明らかに標準的な日本語と異なる。
古代日本に於いて、弥生人が日本全土に広がるにつれて、混血しつつも本来の日本に於ける先住民であったとされる縄文人が南北に押しやられる段階で、(アイヌ人については、よくわかっていないが)わが国では、沖縄県人の先祖が先に枝分かれしてしまい、現在のように(北九州か近畿地方かは知らないが)往来も少なくなるうちに、3母音(例;おきなわ=うちな)などと、一聴する限り、外国語のように聞こえてしまうこともありうる。次いで、九州地方や東北地方などに住んでいる人々の祖先が押しやられてしまったといわれている。これも、文字や共通語で統一されてこなかったなら、ネイティブの古老同士が話すにあたって、通訳が必要なくらいの言語学的差異があるといえる。これとは逆に、例えばサッカーの試合などでスペイン人選手とポルトガル人選手が言い合いする場合などは、「元々ラテン語の一方言(一種類という意味ではない)を話していた一つの国が分かれた程度なので、すべての言葉はわからなくても、言い合いのけんかくらいは可能だ」とあるスペイン人は言っていた。
 
[[イギリス]]のスコットランドや北アイルランド地方での英語表現にも一部そういった例があるが、例えば、日本に於いて、早い段階、つまり、古い時代に枝分かれした方言は、その地方独自の語彙や言い回し表現が生まれると同時に、中央(その時代の共通語や標準語に相当する地方)で死語や廃語になった言葉が、(意味や使い方が変わったとしても)千年以上も生き残っているケースも少なからずある。
例えば、北海道の一部の海岸地帯や東北のある県では、古典にしか出てこない「せば」という言葉が時々中年齢層の人から聞かれる。
 
現在の方言と他言語との境界線は、非常にファジーな部分もあるとはいえ、政治的境界や国家の相違や表記のための文字表現の共通点や差異などといった条件が大きく左右されるといえる。
=== 日本の方言の分類 ===
北海道
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** [[八重山方言]]
* [[与那国方言]]
 
=== 日本の方言に対する政策 ===
[[明治]]時代以降、日本では標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃するような政策がとられてきた。これに加えて、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により、現在ではその土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っている。特に若者の間でその傾向が著しい。方言アクセントは若者においても比較的保持されているが、語彙のレベルでは世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にある。
 
=== 方言における特徴 ===
[[江戸時代]]における薩摩方言のように、ある特定の人物が、現地ないしはその方言圏の範囲内に住む者か、よそ者か(特に、江戸からの隠密に対して)を見分けるための指標として、あえて方言を変化させず意図的に保ち続けた。という例はまれではあるが、前述のとおり、中央集権化が強まった場合や、政策上の理由で統一された言語を公用語、あるいは共通語などに指定される場合などは、方言独自の語彙やアクセントは、世代と共に均一化されていく傾向にある。
 
特に現在の我が国では、東京中心で全国に向けて送信、又は、配給される、テレビやラジオの番組、映画などによって、年代特有の言い回しは方言ではないので別としても、方言が駆逐され、共通語(現在の日本には、一般にいうような厳密な意味での「標準語」は存在しない。)に統一される傾向にある。ただし、現在のこの傾向が、必ずしも政治的な意図の元で行われているとはいえない。
 
民族や遺伝子的観点に於いては、沖縄県人とアイヌ人は近いとはいわれているが、前述のとおり、沖縄県の各方言は、日本語の方言ともいえるが、アイヌ語は明らかに標準的な日本語と異なる。
古代日本に於いて、弥生人が日本全土に広がるにつれて、混血しつつも本来の日本に於ける先住民であったとされる縄文人が南北に押しやられる段階で、(アイヌ人については、よくわかっていないが)わが国では、沖縄県人の先祖が先に枝分かれしてしまい、現在のように(北九州か近畿地方かは知らないが)往来も少なくなるうちに、3母音(例;おきなわ=うちな)などと、一聴する限り、外国語のように聞こえてしまうこともありうる。次いで、九州地方や東北地方などに住んでいる人々の祖先が押しやられてしまったといわれている。これも、文字や共通語で統一されてこなかったなら、ネイティブの古老同士が話すにあたって、通訳が必要なくらいの言語学的差異があるといえる。これとは逆に、例えばサッカーの試合などでスペイン人選手とポルトガル人選手が言い合いする場合などは、「元々ラテン語の一方言(一種類という意味ではない)を話していた一つの国が分かれた程度なので、すべての言葉はわからなくても、言い合いのけんかくらいは可能だ」とあるスペイン人は言っていた。
 
[[イギリス]]のスコットランドや北アイルランド地方での英語表現にも一部そういった例があるが、例えば、日本に於いて、早い段階、つまり、古い時代に枝分かれした方言は、その地方独自の語彙や言い回し表現が生まれると同時に、中央(その時代の共通語や標準語に相当する地方)で死語や廃語になった言葉が、(意味や使い方が変わったとしても)千年以上も生き残っているケースも少なからずある。
例えば、北海道の一部の海岸地帯や東北のある県では、古典にしか出てこない「せば」という言葉が時々中年齢層の人から聞かれる。
 
現在の方言と他言語との境界線は、非常にファジーな部分もあるとはいえ、政治的境界や国家の相違や表記のための文字表現の共通点や差異などといった条件が大きく左右されるといえる。