「イザヤ・ベンダサン」の版間の差分

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===山本七平の発言===
「たまに寄るホテル内のコーヒーハウスで出会ったのが、ホテルの住人ジョン・ジョセフ・ローラーと、山本の友人ミンシャ・ホーレンスキーだった。二人とも私と同様ライトマニア<!--ライトマニアで検索すると懐中電灯フリークの話しか出てきませんが、彼らがほんとうにそうなのでしょうか?どなたか加筆希望。適切な「ライト」へのリンクを貼ってください-->で、ライトマニアが三人集まっていろいろ話をしたのが『日本人とユダヤ人』のそもそもの始まりである。」(平成4年3月月刊誌『Voice』「山本七平追悼記念号」)
 
当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。」とも述べている。(山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』1977年10/1(1899号)49-50頁)
「山本自身は、この謎について、昭和62年のPHP研究所の研究会で、ホーレンスキーの日本人妻が、山本を加えた3人のディスカッションを日本語に直して筆記したものが原本となったと説明した。」(『怒りを抑えし者』稲垣武)
 
後に、1987年のPHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。
「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ、私は著作権を持っていないという事実は最初からはっきりいっている。事実だからそういっているだけであって、そのほかのことを何も否定したことはない」(昭和52年10月『実業の日本』)
:山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたら、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけでジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。
:キリスト教が日本に普及しなのはなぜかという問題意識のもと3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちにまとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。
:ベンダサン名での著作についてはローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。
:ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞式にはベンダサンの代理として出席した。
:ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人。
(山本七平「一出版人の人生論」『Voice』PHP研究所、1992年3月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30頁)
 
また、「『日本人とユダヤ人』は知り合いのユダヤ人からヒントをもらって自分が書いた」と山本から直接聞いたという証言(山本れい子(「山本七平とイスラエル」『月刊みるとす』No.41(株式会社ミルトス、1998年) p11)、渡部昇一(山本七平、村松剛、渡部昇一『民族とは何か』(徳間書店、1992年、初版、183ページ))もある。
「平成二年に膵臓癌の手術を受けた後、『あの本はあなたが書いたんでしょ』と訊くと、『まあね、そうだよ』と言っていました。多少、知り合いのユダヤ系アメリカ人からヒントはもらっていたそうです。でも、あの本に書いてあることは、普段主人が話していたことばかりですもの。」(山本夫人の証言)
 
==イザヤ・ベンダサンをめぐる出来事==