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=== 孝謙天皇 ===
天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために[[紫微中台]]を新設。長官には皇太后の甥の[[藤原仲麻呂]](後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大した。これに反抗した[[橘奈良麻呂]]は討たれる。また天武の孫である何人かの王が皇位を狙って挙兵したが、いずれも刈り取られた失敗におわっている
 
=== 孝謙上皇 ===
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して[[淳仁天皇]]となったが、権力は仲麻呂と光明皇太后が握った。仲麻呂は[[唐]]で[[安史の乱|安禄山の乱]]が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国[[新羅]]の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなど、派手な政策を採る推し進めた
 
天平宝字4年([[760年]])、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった[[弓削氏]]の僧・[[道鏡]]を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年([[762年]])に孝謙上皇は[[平城京]]に帰還し、[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]([[6月23日]])に[[法華寺]]に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。以後、孝謙上皇は親裁を行って、新羅討伐を中止するなど、仲麻呂の政策をなし崩しにする
 
=== 称徳天皇 ===
光明皇太后の後見を無くして、上皇の専制政治に焦りを感じた仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵([[藤原仲麻呂の乱]])するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が[[重祚]]し、'''称徳天皇'''となった。即位後、道鏡を[[太政大臣]]禅師とするなど重用し、専制政治を行った。また下級貴族ながら実力の官人である[[吉備真備]]を[[右大臣]]に用いて、[[左大臣]]の[[藤原永手]]とのバランスをとった。[[天平神護]]元年([[765年]])には[[墾田永年私財法]]によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。
 
神護景雲3年([[769年]])、「道鏡が皇位に就くべし」との[[宇佐八幡]]の託宣を受けた。事の真偽を確かめるべく、[[和気清麻呂]]が勅使として再度宇佐八幡の神託を受けて確認し、それが虚偽である阻止確認したが、清麻呂は称徳天皇の怒りを買って[[大隅国]]へ配流された。だが、天皇が本当に道鏡に皇位を譲ろうとしたのか、また道鏡が本当に皇位を望んだのかは真相は不明である([[宇佐八幡宮神託事件]])。その後、道鏡の故郷である[[河内国]]に[[由義宮]]を造営して、自らの政権の強化を志す。ま、諸説においては事件後、独断で道鏡に皇位を譲ろうとしたというものもある
 
しかし翌年、称徳天皇は偶然にも[[天然痘]]で崩御。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の[[吉備由利]]([[吉備真備]]の娘。姉妹ともいう)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。また、病気回復を願う祈祷も行われなかったことから、十分な治療を施さずに見殺しにしたという説(さらに踏み込んで暗殺説)もある。
 
称徳天皇は生涯独身で子がなく、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、[[藤原永手]]や[[藤原百川]]の推挙によって[[天智天皇]]系の白壁王([[光仁天皇]])が即位した。また、道鏡は失脚して[[下野国]]に配流され、彼が禁じた墾田私有は再開された。
 
== 系譜 ==