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光明皇太后が権力を握ったのは出典のない陰謀史観ではないんだが・・・ もっとよく調べてから削除してください
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=== 孝謙上皇 ===
天平宝字2年(758年)に孝謙天皇は退位し、仲麻呂が後見する大炊王が即位して[[淳仁天皇]]となり、権力は仲麻呂と光明皇太后が握った。仲麻呂は[[唐]]で[[安史の乱|安禄山の乱]]が発生したことを機に、淳仁天皇の名において隣国[[新羅]]の討伐を目論み、国内制度も日本的なものから唐のものへ名称を変更するなどの政策を推し進めた。
 
天平宝字4年([[760年]])、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった[[弓削氏]]の僧・[[道鏡]]を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年([[762年]])に孝謙上皇は[[平城京]]に帰還し、[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]([[6月23日]])に[[法華寺]]に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
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しかし翌年、称徳天皇は[[天然痘]]で崩御。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の[[吉備由利]]([[吉備真備]]の娘。姉妹ともいう)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。また、病気回復を願う祈祷も行われなかったことから、十分な治療を施さずに見殺しにしたという説(さらに踏み込んで暗殺説)もある。
 
称徳天皇は子が皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、[[藤原永手]]や[[藤原百川]]の推挙によって[[天智天皇]]系の白壁王([[光仁天皇]])が即位した。また、道鏡は失脚して[[下野国]]に配流され、彼が禁じた墾田私有は再開された。
 
== 系譜 ==