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[[1983年]]にはプロ入り初の規定打席到達し、打率.302の成績をマークするも、[[駒田徳広]]や[[吉村禎章]]といった若手の台頭もあり年々出場機会が減少し、[[1985年]]オフ、[[有田修三]]とのトレードで[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に移籍。即戦力の期待もあり背番号も7が与えられる。移籍1年目の[[1986年]]に115試合出場、打率.297の成績を残し、外野手のレギュラーを獲得した。[[1989年の日本シリーズ]]では古巣の巨人と対戦。第2戦で後輩の[[桑田真澄]]から同点タイムリーを放つ。この日本シリーズを花道に現役引退。
 
引退後、[[1990年]]~[[2005年]]まで巨人の打撃コーチ、二軍監督を歴任。特に新人時代の[[松井秀喜]]、[[清水隆行]]などに「ウォーキング打法」を教え、主力打者へと育て上げた。[[2006年]]からかつての巨人の先輩である[[高田繁]]GMの要請により日本ハムの打撃コーチに就任。
 
打撃コーチとしての評価は高そうに感じるが、実際はそれほどでもない。
数年に1回3割を打つ程度(いわゆる隔年打者)だった稲葉などを覚醒させ、ペナントV2に貢献しているように、日本ハムでも中~短距離打者(特に左打者)の指導に実績を残した。
巨人コーチ時代も貧打状態に陥ってしまい、日ハムコーチ2年目はペナントV2は達成したが、打線はシーズンではリーグ最少得点、チーム打率は同5位。しかも日本シリーズではシリーズワースト記録(5試合)となる1割4分7厘しか残せず、手腕は決して高くない。
 
反面自分とタイプの異なるバッター(右のスラッガーなど)の指導は苦手なようで、そのため2007年シーズン、大砲を失った打線はリーグ最少得点、チーム打率は同5位に陥り、日本シリーズではシリーズワースト記録(5試合)となる1割4分7厘を喫している。巨人コーチ時代も同様の状況で、チームが貧打に陥ったときがあった(巨人は複数コーチ制で解決している)。
 
*2007年11月2日で球団からコーチ契約を結ばないことが通達された。
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1983年[[10月2日]]の[[広島東洋カープ]]戦、三塁からホームに滑り込んだ際[[達川光男]]に蹴られた事に激怒し殴りかかって退場。[[藤田元司]]監督、[[王貞治]]助監督と共にベンチから抗議した。
 
1985年にトレードで近鉄に移籍するが、これはもともと前年[[定岡正二]]と有田修三の間で行うことがフロントレベルで決定しており、巨人フロントが定岡に通告したところこれを拒否。「トレードならユニホームを脱ぐ」と言って定岡は退団。そこで身代わりとして放出され翌年移籍したのが淡口である。淡口も最初は戸惑ったが、近鉄に移籍すれば当時[[兵庫県]][[西宮市]]に住んでいた母親にいつでも顔を見せることができる、とトレードを承諾した。
 
==背番号==